(5)実在の非二元性から精神療法へ〜その3 [2023年12月04日(Mon)]
2023年、
日本、世界で種々の事件、紛争が勃発した時点で「マインドフルネス再考」
マインドフルネス学は科学学問としてはまだ成熟していない
(5)実在の非二元性から精神療法へ〜その3
次の論文を紹介しているが、「症例A氏」を説明されている。
「外来診療におけるマインドフルネス
〜実在の非二元性から精神療法へ」(執筆者:佐久間健一、佐久間伸子)
(雑誌『精神科治療学』2023年1月号、星和書店、(p61-68)
特集 マインドフルネス再考 〜様々な対象、領域での応用)
佐久間氏が「適応障害」の「症例A氏」を紹介しているので、検討したい。
40代男性。仕事状況で過度のストレスがあり、抑うつ状態になり、薬を使わない治療を求めて来院(X年6月)。「適応障害」と診断し、休職開始。
9月に、8回のMBCTを終了。その後も、通院を続けた。
6カ月で職場復帰。
息子も不登校だったが、X+1年9月、「息子のことを認めることが自分のことを認めることになるのですね。」と語った。
仕事関係でも、「上司を多面的に見ることができるようになり関係が安定化していった。」
X+2年5月、久しぶりにあった父の見方が変わっていた。
およそ2年かかっているが、適応障害が軽くなっているようだ。
以上が、「MBCT」(マインドフルネス認知療法)を用いた例である。MBCTは瞑想時だけの実践であるが、A氏は、息子や父の見方が変化している。以前は、「不快」系統の評価をしていたはずであるが、受容、「快」系の評価に変わっている。佐久間氏は8週のMBCTで、「評価」するなという心得を教えたのに、その後の来院の時、A氏にはMBCTを超えて「行動時」の心得をアドバイスした可能性がある。
または、A氏が、教えられないのに行動時には「無評価」瞑想ではない心得を実行した可能性がある。
MBSRやMBCTは無評価を言うので、ポリヴェーガル理論のポージェスから、対面時には使えないといっている。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4056
私もそう思う。家庭や職場、学校は「評価する/される」場である。評価により感情が起こり、交感神経が興奮する。今も、いじめ、ハラスメントを見た、聞いたのに、傍観していた、黙っていた、止めなかったと批判される事件が多発している。つらい現場が多い。
MBCTのテキストを今一度確認してみると、セッションが8回行われる。その都度、「ホームワーク」が課される。みな「3分間呼吸空間法」が中心である。ほかに、不快な感情が起きた出来事を記録するようにという課題はあるものの、その対面の瞬間の心得(無評価か評価か)ではない。
実際、最後の8回目のセッションの時には、次のように教示されるのは、極めて難しい。学校や職場の討議、討論する場で、次のことを実行できるだろうか。
「聞くことと話すことに意識を向けましょう。賛成も反対もせず、好き嫌いもせず、自分の番になったら何を言うかも考えないで、ただ聞くことができますか。
話しているとき、誇張したり控え目に言うことなく、言う必要のあることだけを言うことができますか。心や身体はどう感じているかに注意を向けることができますか。」
(『マインドフルネス認知療法』北大路書房、p256)
社会的行動時、対面時は、見たこと、聞いたことを「悪」ではないか、ハラスメントではないか、もっといい企画があるのではないか、などと評価しなければならないのではないか。
いじめ、犯罪、ハラスメント、虐待の現場を見た時、「悪ではないか」、「嫌だ」と評価しなければならないのではないか。詐欺でだまそうとしている「悪」ではないかと評価しなければならないのではないか。
もう一点、「話すこと」「話している時」は、相手からの言葉を「聞く」のではなくて、自分の考えた内容を発言する局面である。その内容が「差別」「ハラスメント」であるかないか評価しなくてよいのか。そういう疑念がある。発言は、感覚を受け取る局面ではない。言葉を発したとたんに、自分にも聞こえるが、「自分の発した言葉」を聴いて、「しまった、ハラスメントだ。」では遅い。言う前、まだ、聞いていない段階、言いたくなった段階で、「ハラスメントではない」と評価しなければならない。そして、そういう自己の偏見に気づくことはとても難しい。MBCTではその気づきにくい「闇の差別心、偏見、バイアス」に気づくトレーニングは含まれていないと思われる。
社会的場面でも「無評価」では危険であり、社会の不正を助長するおそれがあると懸念を表明した。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4895
このように難しいことがあるMBCTは、中学生、高校生などには教えないほうがいいのではないかとさえ思う。いじめられても、いじめを見ても、見逃し、傍観していること、討論の場でも自分の意見を言わず傍聴していることが「科学的」「学問的」であるからと奨励しているように受け止められるおそれがあるのではないだろうか。科学者はすみやかに検討すべきである。
ほかにも問題がある。希死念慮のある重い患者には、マインドフルネスを実践した人は、自傷、自殺のリスクを高めるおそれがあるという研究報告もあった。
重いうつ病の人は、瞑想時にも「嫌だ」と感じる感覚、感情、症状が起きるのに「嫌だ」と評価しないように努めることが無理なのではないか。つらい症状、感情の扱いが自然の感じ方と違うので、MBCTはストレスを深めるのではないか。
また、行動時にまで起きる感情にも「無評価」でいようとしていると、「嫌なものは嫌だ」という自然の感情を否定しているように聞こえて、うつ病、パーソナリティ障害などを患っている人には、極めて難しくて葛藤を起こすのではないかと心配する。
佐久間氏の1月号の論文は、人間の根源を種々の観点から述べたもので、哲学の紹介であり、そのレベルとその前の行動時の実践方法、つまり、「マインドフルネス」の方法を
述べたものではないと思う。どこまで「マインドフルネス学」が扱うか、今後、研究すべき領域である。
ちなみに、薬で治らない「うつ病」の人が、瞑想時、行動時に感情や評価基準(本音)を観察して「完治」するまでには、10か月から2年かかる。8週間の瞑想時だけの実践ではとても完治しないはずである。うつ病になると、炎症性サイトカインによる脳の種々の領域に炎症が起きている。職場に復帰すれば、厳しく評価される現場であり、8週間のMBCTの教示だけではとても治らないと思われる。
瞑想時以外の時にも観察するところも「宗教」ではなく、倫理でもいう範囲なので、無評価で観察の瞑想は「宗教を排除したもの」などという宗教への偏見の響きのある広報文も検討していただきたい。うつ病などを治し自殺を減少させる効果があるかもしれない、さらに深いマインドフルネスを研究しないですむ自己合理化の根拠にはしないでいただきたいと思う。
「マインドフルネス学」は、「科学」「学問」ならば、もっと検討すべきことが多いと思う。
(1月号の検討は「続く」)
「症例A氏」を上記のように見るので下図を改訂した。症例A氏は、佐久間氏の8週間のマインドフルネスの助言(=MBCT)にとどまらず評価の現場での別の観察・行動化実践を自ら加えたので軽くなったのではないかと思う(大田の推測)。
(西田は初期と晩期とでは用語が異なる。最後の論文「場所的論理と宗教的世界観」では、すべての人の根底を「絶対無の場所」「絶対者」「絶対的一者」という。絶対に対象にならない。上図では「絶対無」という語にした。同様のことを内外の宗教者、哲学者は「空」「気づき」「慈悲」「無分節」「意識のゼロポイント」「あいだ」などという用語を使ったという(佐久間氏))
薬でなくうつ病を治す方法の開発は長年の悲願
https://blog.canpan.info/jitou/archive/1847
★2009年のNHKテレビ放送とともに出版された本
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4436
★科学学問も第三者による評価が必要
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4444
★学者も自己自身をも批判する良心を
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4413
★専門家多数派のエゴイズムを考える
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3577
★宗教、学問も自分のものを執着する
〜メディアにしかできない
(注)
「無評価で観察の瞑想」は、7つの態度のうち第一をさらに簡略にしたものが普及している
ジョン・カバト・ツィン 1993「生命力がよみがえる瞑想健康法」春 木豊訳、実務教育出版、 pp55-56
後に、北大路書房から『マインドフルネスストレス低減法』の題で発行、同じくp55-56。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/5281
◆「マインドフルネス再考」
マインドフルネス学は科学学問としてはまだ成熟していない
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Posted by
MF総研/大田
at 19:17
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さまざまなマインドフルネス
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