第7回〜絶対無条件の大悲に包まれて「鈴木大拙 願行に生きる」(下)
〜 その生涯と西田幾多郎との交遊 [2023年10月15日(Sun)]
第7回〜絶対無条件の大悲に包まれて
「鈴木大拙 願行に生きる」(下)
〜 その生涯と西田幾多郎との交遊
竹村牧男さん(東洋大学名誉教授)による、「鈴木大拙 願行に生きる」下巻のラジオ放送が始まりました。
発行:NHK出版
竹村氏の願い(あとがき)
「世界が混迷を深め、環境問題は海の汚染を含め危機的な状況にあり、無辜の民を殺して平気でいる戦争がためらわず実行され、南北のみならず随処において経済的格差が絶望的に広がる今日の時代にあって、困難に押しつぶされそうであってもなお
その根本から立て直すためには、大拙の真摯な提言をもう一度、深く学び直し、
そして実際の行動につなげていくことがきわめて大切なことでしょう。」
「人間の誰もが本来の人間性を自覚し実現すべきことを、大拙はすでに戦前から説き続けていました。その洞察には、実に深いものがあったと思わずにはいられません。」
第7回が、10月8日にありました。
日本には、深い心の観察探求がありました。つらいことがある人生ですが、深い心の探求で救われる方法を教えてくれました。
道元は、最近ブームになっている「無評価で観察の瞑想」と同じような「目的を求めない坐禅」のみを強調したという「学問的な」解釈の学者が多いのです。そのためか、深刻な社会問題の解決には用いられることはありませんでした。
しかし、昨年、竹村牧男氏は、道元にも深いものがあったと明らかにされました。鈴木大拙のラジオ放送でも、「超個の個」で出てきます。
竹村牧男『道元の哲学』春秋社、2022年6月
この著書は、道元のほとんどすべての文献を参照した本格的な道元論です。道元の文献には、「身心脱落」「脱落身心」の語がしばしば出てくるが、「身心脱落」は、西田、鈴木、井筒らの絶対無、超個、無分節に該当して、「脱落身心」は、「超個の個」に該当するということを 的確に論証しています。すなわち道元には、深い哲学があった、とする本格的な道元論です。道元のほかの学問的な解釈の相違があったことについて、新しい見解が展開されて、道元が現代によみがえったような印象があります。
道元には「見性」の否定の言葉が出てきますが、それは、超個の体験の否定ではないようです。
うつ病になった時、救済してくれた師が道元の系統であったので、道元の教えに関心があり整理しました。道元の仏道には経過があります。道元は、絶対無、超個の体験を否定していません。途中です。その後があります。インド大乗仏教では他者救済の段階です。しかし、道元の当時の出家が寺の外で活動することは危険でしたし、領主が制限していました。道元は弟子の外出を制限していました。出家のすべきことについてインド大乗仏教の環境や現代日本とは異なることになるのは当然でした。
竹村氏の書籍では、難解な道元の言葉を脱落現成(超個の個)の視点からのことばであると説明しています。
道元には、悟りがない、ある、という学問的な論争が、戦前から含めると100年も続いてきた問題です。この著書で道元や禅の学問的な解明がすすんだと感じます。
「坐禅は悟りを目的とするものではない」とも言われました。「目的」とは、10分後、1時間後に対象的なものを世界に作る意志作用の到達点です。悟りは対象的なものではありませんし、すべての作用の最も深い根源に関わることで、意志作用の「目的」となるものではありません。
日本の深い心の哲学的に探求する方法の開発は現代人の深い苦悩、たとえば、がん患者の死の苦悩、カルト被害の防止などに、十分対抗できるものが含まれていると思います。
星野富弘さんや三浦綾子は、キリスト教徒のようですが、不治の身体障害や病気で、絶望の淵にあったひとがキリスト教によって救済されたと聞きます。
キリスト教、禅、親鸞の教えにある救済の論理を西田哲学が「場所の論理」と「逆対応の論理」で説明しました。
日本の深い仏教に、そういう救済の論理があるのですが、竹村牧男氏のラジオ放送、第7回で、そこに触れました。日本にあった独特の深い宗教意識を、大拙は「日本的霊性」と呼びました。インド(初期)仏教にも、中国仏教にもなかったものだといいます。
「日本的霊性」=超個の個
以下、竹村牧男氏の放送、テキストのごく一部をとりあげ、感想を述べる。
大拙は、はじめは禅についての著書を書いていたが、大谷大学の教授になってから、親鸞の浄土真宗の学者に接して、親鸞の教えにも深いものがあったことを知る。
昭和19年(1944)、敗戦まじかの時期に『日本的霊性』を発表。中国の浄土教とは違う深い救いの道が、法然、親鸞にあったと解釈する。
「超個の個」の詳しい説明は、第9回でされる。次の大拙の文章を紹介している。
「宗教的行為なるものは、いつも個を超えたところから出る。・・・
しかし個の行為はーーそれが宗教的であるかぎりーーいつも個を超えたところから出なければならぬ。分別論理の上で、個を基礎とした行為と見られるものでも、その行為の主体は個を超えているとの意識がなくてはならぬ。」(テキストp54)
「超個者が個を通して始めてその意志を実現しあたわぬという意味である。超個が超個として存在することは、超個でなくなることである。それ故またそれ自身の意志を持つことが出来ぬのである。超個はどうしても個を通さなければならぬ。・・・
超個は超個だが、それは個の外にあるのではなく、またその中にあるのでもない。超個と個の関係は超越でも内在でもない、また超越で内在とか、内在で超越とかいうことでもない。
超個は超個でそのまま個多であり、個多は個多としてそのまま超個である。」(P54-55)
第7回に戻ると、大拙によれば、親鸞の、浄土教の教えでは、浄土は死んでからのことではない。この人生で、浄土にいるのである。この人生のこの世界が浄土である。竹村氏は、大拙の次の言葉を紹介している。
「仏教の浄土は絶えず此土と非連続的に接触している。浄土へ行ききりの仏教徒はない、いずれも浄土着は即ち浄土発である。浄土は寸時も停留すべきステーションではないのである。」(P21)
この仏教観は、西田幾多郎も同じであると、竹村氏。
これが、なかなか理解されないのだが、竹村氏は、さらに、第8回以降、盤珪、白隠、道元も同様であることを紹介する。
また、第7回の最後に、鈴木大拙が戦争末期に、『日本的霊性』の中で、他国侵略、戦争批判、仏教批判らしい文章があることを紹介している。
「武力・機械力・物力の抗争は、有史以来、やはり枝末的である。畢竟は霊性発揚と信仰と思想とである。そしてその霊性・信仰は、思想と現実とによって、いやが上に洗練せられたものとならなくてはならぬ。この際における仏教者の使命は時局に迎合するものであってはならぬ。」(P25)
西田哲学、鈴木哲学によれば、すべての人間が「超個の個」であり、絶対平等である。これは、現代の世界における種々の差別(人種、性、宗教,障害など)や殺人、戦争を批判するものである。戦争などで他者を殺害することも批判する。超個の個である自己であれば、がん患者の自分の死の苦悩(がん闘病者の自殺防止、ターミナルケアなど)にも貢献する。いじめ、ハラスメントで、超個の個である他者を凌辱したり、自殺させるものがある。とんでもないことなのである。
また、種々の苦悩から死にたくなる(自殺)ひとが多いが、「超個の個」であることに目覚めれば、思いとどまることができる。何とか、この西田哲学、鈴木哲学を教育してもらえないだろうか。
日本にあった、深い人間観、哲学を理解して、現代、未来にいかしてほしいものと思う。
このような、深い人間哲学(実は親鸞、道元、盤珪、白隠などにみられたのだという)は、大学でもほとんど聴くことはないだろう。出版される本でもほとんどみられない。この放送の第8回以降も注目したい。
(蛇足であるが、ブームになったジョン・カバットジンの「マインドフルネス」で、彼が「全体性」というものは、鈴木大拙がいう「超個」であろう。
日本にある深い人間哲学による「マインドフルネス」を現代的に開発できないだろうか。仏教や禅、浄土経典の説き方は、現代のひとには、わかりにくい。だから、仏教離れ、カルトの被害も起きているように見える。
悲惨な精神状況にある現代の日本。このラジオ放送の内容は、もっと多くの人に知ってもらいたい。テレビでも放送してもらえないだろうか。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4630
★道元に関する学問〜竹村牧男氏
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3348
★竹村牧男氏が道元にも超個の個の重視があったことを明らかにした。ひとはみなせっかくめぐまれた、生命なのに、世界から紛争、殺戮がなくならない。道元から西田・鈴木に至るまで、根源が超個の個であること、それを破壊する独断・我執を批判していたのに。なぜ、日本のすぐれた哲学を、こともあろうに、日本人が積極的に否定するのだろうか。このことも明らかにしなければならないのだろうが・・・。)
https://blog.canpan.info/jitou/archive/5141
【目次】竹村牧男氏によるラジオNHK宗教の時間 〜 「鈴木大拙 願行に生きる」
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Posted by
MF総研/大田
at 10:48
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深いマインドフルネス
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