鈴木大拙 〜 第3回=釈宗演老師への参禅 ー アメリカ渡航まで [2023年07月10日(Mon)]
第3回=釈宗演老師への参禅 ー アメリカ渡航まで竹村牧男氏(東洋大学名誉教授、前学長)によるラジオ放送が4月から始まりました。https://blog.canpan.info/jitou/archive/5141 NHK宗教の時間 毎月第2日曜日、午前8:30−9:00 テキスト「鈴木大拙 願行に生きる」(上)竹村牧男、NHK出版 6月11日は、第3回でした。 大拙は金沢の第4高等学校を退学した後、北条時敬が開催していた禅会で、禅を知った。そこに、毎月1回、国泰寺の雪門老師を招いて、坐禅の指導を受けていた。そこに、鈴木大拙も西田幾多郎も通った。 大拙は、1891年に上京した。鎌倉の臨済宗、円覚寺の今北洪川に参禅。老師はまもなく死亡したので、大拙は釈宗演の指導を受ける。無字の公案に取り組む。宗演が東慶寺に移ったので、そこで修行を続ける。数年たった時、1896年、見性した。そして、アメリカにわたる。 一方、西田幾多郎は、金沢の卯辰山の洗心庵にいた雪門老師について、猛烈な坐禅修行をする。雪門が和歌山に行ったため、時々、京都の大徳寺の広州老師のもとに通い、修行。無字の公案を通った。見性を許された。 後の回に出てくるが、見性は、思想を言葉で理解するようなものではない。我々の意識作用の根源に触れる「体験」である。すべての人間に共通の根源。 西田が後に、絶対無という言語で表現するものの体験。 最近、無評価で観察するマインドフルネスがブームになったが、「坐禅」なら、それと同じ程度である。それは、何年たっても、見性にはならない。数年たってから、ある体験(見性)が起きたのだから、坐禅や「無評価で観察の瞑想」ではない。それらは、人の根源を体験していない。 見性の体験のあと、さらに修行を続けて、哲学的な深まりを見せる。第4回で紹介される。 無評価で観察の瞑想は、静かな場所でする「坐禅」と類似の位置にあり、だれでも、できる。8週間くらいでマスターできる。 見性は、数年も真剣に修行したあとに体験する。宗教的と言われる。30年もかかるひともいるし、それでも体験しないひとが多い。無評価で観察のマインドフルネスには、見性はない。 すぐに会得する瞑想、坐禅と宗教的な見性との中間にあるのが、マインドフルネス心理療法のうちでも、自己洞察瞑想療法(SIMT)である。宗教以前の種々の苦悩(人間関係や精神疾患など)の改善を目指すマインドフルネスである。多くのひとが、苦悩する領域である。他の精神療法(人認知行動療法など)と同様の領域を扱う観察法である。 SIMTは、宗教的な問題ではなくて、うつ病や不安症などと同じ領域を扱う精神療法である。アメリカからはまだはいってこない。日本の大学でも病院でも用いられていない。「無評価で観察」する独居時ではなく、家族との対面、職場での対面時の心の観察である。この時に、苦悩が起きて、精神疾患にもなる。こういう対面時の観察手法によって、精神疾患などを治癒し、予防する。 https://blog.canpan.info/jitou/archive/5141 【目次】竹村牧男氏によるラジオNHK宗教の時間 〜 「鈴木大拙 願行に生きる」 |
Posted by
MF総研/大田
at 20:10
| 深いマインドフルネス
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