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(14)西田哲学も理解せずして否定する学者 [2022年08月22日(Mon)]

(14)西田哲学も理解せずして否定する学者

  =道元も西田も世界にほこれるのに日本人が矮小化、否定するおかしさ

 道元は坐禅のみを絶対視して、超個の体験を否定したという誤解があった。 道元には、自己を超えた底の働きなど認めていないという誤解もあった。 しかし、 竹村牧男氏が新著で、道元もすべての人間の根底の超個を強調し、体験も重視していたことを解明された。

 道元は超個の体験を否定したという解釈が100年近く説明されてきたが、誤解であったことが、 最近あきらかになった(大竹晋氏、竹村牧男氏など)。 これは、鈴木大拙などによって、東洋、なかんずく日本には、深い宗教哲学があったことを世界に紹介してきた。 それもあって、西洋の哲学者が、キリスト教に限界を感じる西洋の哲学者は、 今後の人間の哲学とか宗教のありかたを、日本の仏教に期待してきたはずである。

 ところが、戦後の日本でもなお、道元には深い哲学はない、悟り(超個)の体験はない、ただ坐禅するだけだという 解釈が広く知られていた。外国の哲学者が期待するのに、日本人が道元には深いものはないと主張してきた。西洋のひとが深い哲学があるという宝を、無評価で観察のマインドフルネスと同じ程度のものであると謙遜する、実に奇妙な現象であった。 もし、自己を超えたもの、超個の哲学を持たないのが道元の坐禅ならば、「無評価で観察するマインドフルネス」と、ほとんど同じである。そんなに浅い道元だったのか疑問であった。

 このような日本仏教だから、西洋から期待されたと上に書いたが、仏教や禅を批判して「全体主義的」(注)だという学者も出てきた。日本仏教全体の批判である。日本仏教は「全体主義的」で、もうこれから期待できないというのである。いよいよ、日本仏教は衰退にむかうだろう。いかにも、情けない状況である。
    (注)マルクス・ガブリエル/中島隆博『全体主義の克服』集英社新書、2020年8月
    「ハイデガーと仏教というコンストレーション(星座配置)は、全体主義的です。」(p101)

    (注)「全体主義」とは、 こちらに詳しい説明がある。  「全体主義とは、個人の利益より全体の利益を優先し、個人が全体のために従属しなければならないとする思想」
 日本、ドイツの研究者から、批判されたように、本当に、日本仏教は、全体主義的なのか、未来の生き残りをかけた重大な岐路に立たされている。
 つい最近、道元も超個のことを強調していたことを論証する著書が発刊された(竹村牧男『道元の哲学』)。 前の記事の通りである。

西田哲学も誤解されてきた

 そして、もう一つ、重大な誤解が続いている。
 日本の学者が、西田幾多郎が戦争に協力した、他国侵略を肯定したとして、西田哲学を全面的に否定する論調である。西田哲学を理解しない誤解である。 これもまた、日本の宝を、何と日本人が否定するという奇妙な、残念な現象である。

 このことは、ここでも触れている。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3762

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4960

 すぐれた哲学であるのに、日本人が否定することは、次の誤解による。他の分野ではすぐれた学問的な業績をあげるひとが誤解を拡散させる。

1.西田哲学(西田幾多郎)と弟子たち(京都学派と称された)と同じであるとの誤解

2.禅と西田哲学を同一視する誤解
  =西田は禅を擁護したという誤解。西田は、当時の禅解釈を厳しく批判していたのに、そこをみていないで西田を批判する誤解。

3.西田は皇道に根拠を与えて軍部が「大東亜共栄圏」なる思想によって他国を侵略する根拠を与えたとの誤解

4.根本的に、西田哲学を理解していない
 西田哲学、というより、人間が難解なのであるが、すべての人間の根底に平等なる働きのあることを論理的に説明した西田哲学が理解されない。

 特に、西田は、当時、他国を侵略することは、自国利己主義、帝国主義であると批判したのです。当時「皇道」が叫ばれていたので、「皇道」に新しい意味を付与して、自国利己主義ではなく、「世界の立場」に立ち、すべての国が互いに他国の文化を尊重し共生していくのが、本来の日本の道だと主張していたのです。それを理解していないで、戦後、現在でも、西田を批判しています。批判は、論理的に正しく理解してからにしてほしい。さもないと、学生、社会人に、日本の宝をクズのように思わせてしまい、尊重するひとがいなくなります。現在も、西田が批判した、利己主義的な世界観で他国を侵略することや、カルトによる被害が起きています。
 問題の論文、「日本文化の問題」は、注意深く読めば、私ごとき、しろうとでさえ理解できます。後で、西田哲学の研究者からの反批判を紹介します。このブログをご覧のかたは、ご理解ください。西田は、投獄されるかもしれない状況で、自国利己主義的な思想で、他国を侵略することを批判する論文を書いたのだ。(後述、藤田正勝氏による。別の記事で紹介したい)
 こういう事情であるのに、戦後のひとが西田の主張を理解せずして批判したのだということを広く紹介してほしい。大学の人は、その影響の大きさを推測して、発言、著作をお願いしたい。学生、社会人を誤らせないように。

 すぐれた西田哲学を専門家でない(別な領域を専門とする)学者がこういうふうに、よく理解せずに西田哲学を否定すると、それを聞く学生には悪影響を及ぼすおそれがある。 地方創生SDGの4「質の高い教育をみんなに」ということが実現されないことをおそれる。偏った教育になる。

 西田哲学を理解し実践方法を開発すれば、種々の社会心理的な問題の解決法を開発できるかもしれないのに、若手の研究者や学生が禅と西田に失望して、それを活用するための科学的な研究がされず、苦悩する人々の救済を妨害することになるからである。無意識のバイアスに近いと思われる。
    https://blog.canpan.info/jitou/archive/5031
    ★自分の意識を観察すること=昔は、仏教、そして大乗仏教、禅、とその時代の環境が求めるものに応えようとしてきた。現代は禅に失望して「マインドフルネス」になった。しかし、深い哲学で全体の方向を示さないものがある。それは、危険である。カルトの世界観が潜んでいるかもしれない。
 不安、孤独、差別、抑圧、低い自己評価、死の不安などで苦悩する人々に、禅や西田哲学に絶望させるおそれがあるからである。カルト組織の被害、長期的なひきこもり、うつ病、自殺、がん患者の死の不安などで苦しむ人々が救済されない。また、日本でも世界でも独断的な思想で他者を殺す、他国を侵略することが起きているが、すべての人間の生命の尊厳性を哲学的に議論を世界的な規模ですすめるべきである。
 西田哲学には、独断的な歴史観で他国を侵略することを批判する「共生」の思想もある。すべての人間の生命の絶対的な尊重があり、現代の国際状況をみれば、西田哲学を再検討すべきであることを西田哲学の研究者が声をあげている。もちろん、複雑な世界の問題が、西田哲学だけで済むとは思わない。全面否定でなく、良きものは採り、そぐわないものは捨てればよい。足りないものは良き他を加えればよい。その時も、自己の利己主義的な基準ではなくて、西田哲学がいう世界の立場に立つべきである。

 このことは、従来も述べていた(関連記事)が、専門家でない私の意見など聞くひとはいなかった。
 そこで、深い禅や西田哲学を正しく教えてくださる専門家に、やさしく説明して下さるように聞き出してくださる編集者に対談してもらって、 学生や社会人に入手しやすい「新書」を発行していただきたい。
 または、ガブリエルと西田哲学の専門家との対談をしてもらって、新書にて出版したいただくこと。大学では、講師の説ひとつしか教えないことが多いからである。

 深い禅や西田哲学を理解せずして学生に西田哲学を否定的に伝える専門家がいる危機的状況 を見て、これからも 世界的な可能性のある西田哲学を否定して学生や社会人に教えるのは、さすがにまずいので、最近、 西田哲学の専門家(藤田正勝氏や小坂国継氏など)が反論をしている。これらが、西田を否定した本を読んだ学生や社会人の目にとまればいいのだが、絶望的である。西田哲学の否定という偏向した解釈を信じてしまうのであろう。誠に、危険、残念である。

 竹村牧男氏も、次のように述べている。西田は終始、自国エゴイズム的思想による侵略戦争を否定していたのである。

 「藤田正勝の近著『人間・西田幾多郎ー未完の哲学』(岩波書店、2020年)は、その辺の事情をかなり克明に描いている。西田はその国家至上主義に与さない立場によって逮捕されるかもしれないような状況にあって、自己の学問を,世界に開かれた立場から構築することを、毅然として貫いていた。」(竹村牧男、2021年『唯識・華厳・空海・西田』青土社、p309)

 これらは、専門書であるから、学生や社会人に知られにくい。ぜひ、どこかの出版社の新書でわかりやすく説明していただきたい。

 この問題は、重要なので、藤田正勝氏や小坂国継氏などが西田は他国侵略する当時の国の立場を批判していたことは別の連続記事として、簡単に述べてみたい。

 この連続記事は、宗教的な領域、仏教や禅、西田哲学、マインドフルネス学、精神療法などの領域の宗教者や学者の倫理という視点を考えて、一応、終わりにしておきたい。

【関連記事】

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3762
★西田哲学を理解せずして否定すること
=西田哲学の社会貢献への活用を妨害されることになり残念

https://blog.canpan.info/jitou/archive/1872
★西田哲学の最終的立場(板橋勇仁「歴史的現実と西田哲学」)

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3765
https://blog.canpan.info/jitou/archive/2476
★西田は形式的な坐禅を重視しない、エゴイズムの観察を重視

https://blog.canpan.info/jitou/archive/2218
★我執・独断 科学は本来、独断と我執を否定すべき

地方創生SDGs 4 質の高い教育をみんなに


この記事は、次の記事の一部です。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/5018
【連続記事】専門家の倫理〜学者・医師・宗教者・マインドフルネス者
Posted by MF総研/大田 at 20:30 | エゴイズム | この記事のURL