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自己の私を去って、どこまでも真実を求め、真実に従う、そこに、ジャーナリズムがあるのである [2022年05月09日(Mon)]
★殺戮・戦争・核・ハラスメントの被害者になるかもしれない現実の社会で自己のエゴイズムの心理を「無評価」「評価」ということを考える

自己の私を去って、どこまでも真実を求め、真実に従う、そこに、ジャーナリズムがある

 真実を求めるもの、科学学問と道徳があるという。 西田哲学の言葉で考えました。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4975
★科学学問と道徳は自己の立場を全くなしに

 科学学問を行う大学人にも、エゴイズムが多いのは、オルテガなどによって指摘されています。「御用学者」の語もあります。真実がゆがめられます。国民が「質の高い教育」を受けられなくなります。 西田哲学が教えています。
 質の高い教育は、「地方創生SDGs」のゴール4でもあります。今の大学がこれを遂行しているのでしょうか。
http://mindfulness.jp/sdgs/detail-goal4-kyouiku.htm
★マインドフルネス総合研究所・SDGs4 「質の高い教育をみんなに」

 真実の探求をするものの一つに「ジャーナリズム」がありました。

 西田幾多郎は、前述の論文には、ジャーナリズムを加えてはいません。しかし、私は、加えたいと思います。

 「我々が身体を有って生まれるということは、我々は無限の課題を負うて生ま れることである。我々の行為的自己に対して真に直接に与えられたものというの は、厳粛なる課題として客観的に我々に臨んで来るものでなければならない。」 (『絶対矛盾的自己同一』旧全集9巻,180頁)

「実践的自己に対して与えられるものは、無限の課題でなければならない。我々の真の自己に対して与えられるものは、我々の生死を問うものでなければならない。我々はどこまでも自己の私を去って物そのものとなって考え、物そのものとなって行う、どこまでも真実を求め、真実に従う、そこに科学があり、道徳があるのである。」(『経験科学』旧全集9巻,300頁)

ジャーナリズムにも真実を伝えるべきという道徳が

 ジャーナリストにも崇高な倫理があるように見えます。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3577
「メディアの真の責任とは、政府が知らせたくないニュースを人々に知らせることだ。」
 「メディアが口輪をはめられてしまえば、ほえられなくなる。国民の知る権利が脅かされれば健全な民主主義社会の基盤は揺らぐ。」

 こうみていると、西田幾多郎が指摘したのは、科学学問と道徳の2つの領域を挙げたのではなくて、科学学問を行うところに、道徳があるということも考えられます。

 西田がいうところの「自己の私を去って物そのものとなって考え、物そのものとなって行う 」ということは、難しいのですが、簡単に「私利私欲を去った立場から」と言い換えておきます。

 科学学問をする学者は、私利私欲を去った立場から行えということです。私利私欲を去った立場でということが「学者の道徳」であろうということです。

 現在、ウクライナに関する情報が、ジャーナリズムによって正反対の情報やかなり違った解釈が出ていることを現在進行形でみています。どちらが真実であるのか、だれでもが「評価」「判断」するでしょう。

 そうなると、西田のいう立場は、ジャーナリズムにも言えるのでしょう。権力あるものに迎合して 真実を隠す、ゆがめる、フェイクを流すジャーナリズムには、西田幾多郎のいう「道徳」が疑われるでしょう。
 「御用学者」という語がありますが「御用ジャーナリズム」であってはならないということでしょう。

 私利私欲を去った立場で、ということは、科学学問、ジャーナリズムにもいえますが、ほかにもあるのではありませんか。皆様の行っているものはこういうことはありませんか。
 フェースブック、(できれば、ツイッターでも)たずねてみます。



https://blog.canpan.info/jitou/archive/4975
★殺戮・戦争・核・ハラスメントの被害者になるかもしれない現実の社会で自己のエゴイズムの心理を「無評価」「評価」ということを考える
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4903
【ジャーナリズムの権力批判】
Posted by MF総研/大田 at 07:38 | エゴイズム | この記事のURL