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世界観・人間観の哲学を確立して自分の力で考え信念を貫いて行動すること [2022年02月24日(Thu)]
新刊本が印刷中です。3月に発売になります。
『「死」と向き合うためのマインドフルネス実践』

死者と霊性の哲学(6)世界観・人間観の哲学を確立して自分の力で考え信念を貫いて行動すること

 次の書籍についてみている。
『死者と霊性の哲学』末木文美士、朝日新書

(6)世界観・人間観の哲学を確立して自分の力で考え信念を貫いて行動すること

 本書は、世界や自己の探求の歴史を紹介している。世界観や自己観についての深い哲学が、海外の「神智学」、および、日本の哲学に期待できるものがあるという。

 それなのに、欧米のものだけを輸入して、欧米の名前を出して自分の権威づけをしようということはもうやめようという。日本にあるのだから日本のものを捉え直して、自分の力で考え、信念を貫いて行動していこう(p319)、アメリカなどのものを基準にして、議論しないという態度をやめて、十分議論し自分の哲学を確立していくことを求めている。
 これが本書の最後の結論である。

 「何でも強者の後ろに付いて歩くことで、自分も威張れると思う「森の石松症候群」はもうやめようではないか。自分の力で考え、信念を貫いて行動することこそ、大事ではないか。そのためにも自己の世界観・人間観を十分に反省し、議論し、「哲学」をしっかり確立していくことは不可欠である。」(p319)

 「世界観」は、哲学の認識論であろう。対象的世界をどう観るかであり、無評価ではありえない。自分の価値の世界(叡智的世界)を高く評価し批判されることを嫌悪の評価をする。しかし、共生していかねばならない。
 「人間観」は、実在論に通じるであろう。自己とはどういうものであるか。浅い段階の自己から霊性に基づく人格的自己まである。ここに霊性の哲学が関係する。
 ところが仏教(*)やマインドフルネスには、この問題には全く応えられない解釈が多く、末木氏が紹介されたような深いものを学ぶことができる機会が少ない。SDGs4の課題である。マインドフルネスでいう自己(文脈としての自己など)を超えたものが日本の霊性の哲学にある。
    (*)霊性を言わない現在の多数の仏教解釈のこと(70年も前に西田が指摘)。自己成長、利他、根源の自内證が弱い仏教解釈。大竹晋氏が指摘した)
 また、「自分の力で考え、信念を貫いて行動すること」は、哲学の実践論、生き方に通じるが、仏教(深い霊性を言わない解釈の)やマインドフルネスは応えてくれないが、日本の哲学(末木氏が紹介したように多くの哲学者が探求してきた)に学ぶことができる。西田哲学では、「実践哲学序論」の論文がある。(これを具体化した一例がマインドフルネスSIMTである。霊性のレベルが3月刊行の著書である。これはほんの一部である。多くの人が他の領域の深い人間洞察=マインドフルネスを研究開発してほしい。)。
 末木氏はさらにこういう。

  「大国でも先進国でもなくてよい。物質的な幸福ではなく、人々が心の幸福に満たされた国こそあるべき国の姿ではないだろうか。長い歴史と伝統を踏まえながら、心の中に平和のとりでを築き、心の中に幸福の花を咲かせられる国、それこそが日本が目指す理想ではないだろうか。」(p319)

 「心の幸福」と言われているが、「幸福」の哲学(*)もいくつか見たが、瞑想の局面だけでなくやはり人生のすべてで幸福を感じるのであり、日本の霊性の哲学も参照できるだろう。
 仏教もマインドフルネスも、書籍でも大学でも、欧米の人のもので霊性的なレベルのものが紹介されているのに、日本のものが目立たないのは寂しい。仏教もマインドフルネス学も、日本のものがあるのだからそれを発掘し生かしてほしい。  自説を超えるものであるように見えるだろうから、実現は難しいが、これを指摘してくださる学者がおられたことは実にありがたい。実践者は指摘していたが、言葉での表現が難しくてあまり伝わってこなかった。少しずつ実現していってほしい。いい未来を作ってほしい。

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★志向するのは末木氏のご指摘のとおりであると思うが実現するのは大変難しい。 実現に向けて声をあげて動いていく若者がおられるのだろうか。今、指導的位置に立つ人たちは、現在の自分に満足しています。力を持っています。自分をゆるがすような動きを寛大な目で後援してくれません。アカデミック・ハラスメント(2月21日朝日新聞社説「人権侵し研究を阻む罪」)があります。
 一体、どのような人たちが深い霊性に基礎をおく行動をしていくのでしょうか。今のままではいけないと思う若手に、末木氏の声が届いているのでしょうか。
  地方創生SDGs4も「質の高い教育をみんなに」であるが、何を教育するかの決定の力を持つひとが自分の説を批判するものを教育するとは考えにくい。
 そして、届いていても、動けるのでしょうか。どうしたらいいのでしょうか。見て見ぬふり、知っても動けない。

【参考】
https://blog.canpan.info/jitou/archive/2787
★学者も独断の叡智的自己のエゴイストになりやすい、至誠の叡智的自己であれ、と仏教は教えているが。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3577
★ここに多数派説と少数説の例(少数説は現代にも貢献できる可能性があるが、ほとんど教えられない)

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3939
★(少数派)大乗仏教にあったもの・現代にもなお当てはまる=人間完成・利他=他害しないことも

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3159
★マインドフルネスには危険なことも
 MBSRは浅いとジョン・カバットジン氏がいうのに、それを超えた自己観察や、宗教的な深い観察を排除するのも危険なことであろう。共生の流れにそむくのではないだろうか。たとえば、発語や暴力行為、ハラスメント行為は、行為者自身に聞こえる見える。それを観察して(無評価ではなくて)ハラスメント行為や虐待であり、良くないと評価判断するような観察(=マインドフルネス)も、公益となり重要な領域であるから学問的に研究開発すべきでないだろうか。そして、さらに、末木氏が指摘されたように、日本には仏教や哲学があるのに、大学で深いものが教育されていないものがあり、その視点から従来、定説と言われたものをとらえ直すべきものがあるのではないか。学問的な検討を切に望みたい。

死者と霊性の哲学
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4932
Posted by MF総研/大田 at 08:11 | 深いマインドフルネス | この記事のURL