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(4)ドストエフスキーのキリスト教は少数派説 [2021年12月05日(Sun)]
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4875
無評価で観察のマインドフルネスを超えて


(4)ドストエフスキーのキリスト教は少数派説

  NHK Eテレビの「100分で名著」がドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を紹介しました。そして、11月29日、第4回が終わりました。 その放送で、小説の冒頭に、キリスト教の聖書の言葉が書かれていることに触れました。

 「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただの一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かな実を結ぶようになる。これをよくおぼえておくとよい。」

 ヨハネによる福音書の言葉だそうです。私の手元にある聖書では、こうなっています。イエスはこうお答になった。

 「人の子が栄光を受ける時が来た。
よくよくあなたたちに言っておく。
もし一粒の麦が地に落ちて死ななければ、
それは一粒のままである。
しかし、死ねば、豊かな実を結ぶ。
自分の命を大切にする者はそれを失い、
この世で自分の命を顧みない者は、
それを保って永遠の命に至る。
わたしに仕えようとする者はわたしに従え。
そうすれば、わたしのいる所に、
わたしに仕える者もいることになる。」
(『新約聖書』フランシスコ会,1985)

 このブログで何度も紹介したように、キリスト教と大乗仏教、禅とが共通のところをいっているという解釈をするひとが何人かいます。少数派ですが・・・。

 エックハルト、フランクル、遠藤周作、西田幾多郎、鈴木大拙、滝沢克己、神谷美恵子、武者小路実篤、平塚らいてう、・・・。そして、MBSRのマインドフルネスを開発したジョン・カバット・ジンもそうかもしれません。

参考:「見えないもの、見えるもの」

 西田幾多郎もドストエフスキーを高く評価しています。

 西田幾多郎のドストエフスキーについて評価した論文をみつけました。

https://www.toyo.ac.jp/uploaded/attachment/11909.pdf
神なき時代の宗教
──後期西田哲学における宗教の問題──
 白井 雅人

 少数派ですが、これでこそ、ターミナルケアが必要とされる時、死の不安、深い苦悩を解決するひとがいる。がんを告知されても、自殺しないですむかもしれない。

 西田幾多郎、鈴木大拙の絶対無、超個と同じものが聖書でも言われているとしたら、この箇所は、次のようになるだろう。意訳する。

 もし、一人の自己が自我を主張し続けて、自分だけの命を大切にして自己保身に固執し他者を苦しめる者は、かえってその固執した自己のものを失う。それは、その人だけのものである。未来に実をむすぶことがない。(死んだら、もうかえりみられなくなる)
 しかし、自我を捨てて自己の命を捨てる者、自己が生きているのではないことを知ったものは、かえって命を保って永遠の命(超個)を得る。

 「死」は生物的死ではなくて、自我の消滅であり、生まれ変わりは、この人生でする。そういう、生きているうちから永遠の命を自覚するのが少数派の解釈である。

 すべての人の根底に絶対に対象にならない働くものがあることを認めることが真相であるというような哲学をいう人たちが、このように西洋にも日本にも、インド大乗仏教の人にもいた。

 これは、少数派説であるが、永遠の命を得るという、死を意識するがん患者さんなどのターミナルケアに貢献できる可能性がある。また、若くして生きる意味を失った人が自殺していく悲劇もあるが、自己が自己を超えた超個の命、永遠の命であるとを教える少数派説だが、排除していいのだろうか。大乗仏教の根幹にもかかわることである。

 少数派説であるが、包括的な教育では教えらえるべきではないだろうか。 ジョン・カバット・ジンも、道元に深いものを見ているはずである。

 少数派説を無視、傍観、排除すると、罪深いことになりませんか。排除しなければ、それを知る機会があって、苦悩を解決できて、死なずにすんだかもしれないのですが。知らずに悪を犯す一例ではないのでしょうか。こういうことは、真剣に検討してみる必要があります。

 これほど深い問題ではなくても、重症のうつ病が治るかもしれない治療法があるのに、教えない、隠す、排除するということも似ていませんか。
 難病に指定されている病気に効果があることがある治療法が開発された時、それができない医者がその治療法があることを教えないとしたら人道的には罪作りでしょう。それと似ていませんか。

 うつ病は、治らないと自殺される危険がある病気です。医師が可能性ある治療法があることを教えない状況。自己の観察にも、無評価観察だけではなくて、ターミナルケアに関係するような観察もあるが、大学ではその教師の専門だけを教えこまれる 状況です。
 深いものもあること、広く浅く、学校教育で教えてもらっておいたほうがいい。危機的状況になった時に、思いだせばいい。還元主義、画一主義、全体主義に負けず、自分自身の頭で納得するまで考えたい。

(注)上記の哲学は、最も深いレベルのマインドフルネスSIMTの領域です。宗教的レベルです。

 マインドフルネスSIMTには、3段階があります。

意志的自己レベルのマインドフルネスSIMT=大田健次郎(2013)『うつ・不安障害を治すマインドフルネス』佼成出版社。
すでに無評価の観察を超えています。家庭、職場で対関係では、エゴイズム、ずるい心理、闇の心理が動いていないか自己の意志で評価します。

叡智的自己レベルのマインドフルネスSIMT=大田健次郎(2014)『 不安、ストレスが消える心の鍛え方――マインドフルネス入門』清流出版

以上まで、宗教的ではありまぜん。よくよく観察すると確かに理解できるはずです。自己の良心を最高度に発揮するように自己を観察し実行します。

人格的自己のマインドフルネスSIMT=良心さえも届かない深い苦悩、自己存在の苦悩の解決。絶対に対象にならない、すべての人間に共通の根源。2022年3月発売の予定。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4875
【目次】無評価で観察のマインドフルネスを超えて


Posted by MF総研/大田 at 19:18 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL