(7)大乗仏教はある定義をしてそこに留まるような方針はなかった [2021年07月19日(Mon)]
(7)大乗仏教はある定義をしてそこに留まるような方針はなかったうつ病になる、自殺が起きるということは、身体的ではなくて心理的な悩みです。 それならば、大乗仏教の人々の支援の対象だったはずです。苦悩する人を救済することで、「利他」と言われます。だから、大乗仏教者は、これが幸福だ、といって満足してはいません。世の中には、苦悩が限りなく生じますので、枠をはめないのです。大乗仏教の「大智度論」に、そういう教えがあります。 https://blog.canpan.info/jitou/archive/2427 ★大乗仏教者は、禅定の喜びにとどまるな https://blog.canpan.info/jitou/archive/2425 ★大乗仏教者はどこにもとどまってはならない、人々の苦悩は限りがないから 経典や論書などの文を読んで、思想や哲学などがわかった、理解した、これが仏教だ、というところに満足してはいけないということでしょう。つまり世俗諦ではいけない。 わかったつもりならば、證明せよ(勝義諦)、悩んでいる他者を救え(利他)、自分だけの満足という「エゴイズム」ではないのか、仏教は思想哲学の理解ではない、人間成長だ。自分が最高の人間だと思っているつもりか、成長がたりないのではないのか。などということでしょう。西田は「至誠」であるかという。3つの核心です。 したがって、大乗仏教ならば、いつの時代、どこの国、地域においても、苦悩の解決支援ができるはずのものだ、と認識していたのだと思います。 たとえば、うつ病、自殺になるところの一つの領域としては、がん患者が告知されて苦悩する問題、いよいよ死を意識する段階のターミナルケアの現場があります。 がん患者が、うつ病になるとか、自殺されるということは、まさに心理的な問題です。もし、大乗仏教を自認する人々が、この領域で支援活動されるならば、 自殺防止に貢献できる重要なリソースのはずです。大乗仏教には、その力があるはずです。 「坐禅が究極だ」などと言って、禅定の喜びという自己満足にとどまるなというのが「大智度論」ですから。檀家信者が、がんとなり心理的に悩む時にも、「自分は坐禅ができて満足だ」と思って、檀家信者に心理的なケアをしようとしないことになります。 うつ病が治らずに、自殺する人が多くなっていますが、我が仏教はそのようなことにはかかわらない、してはならない、それをするくらいならば坐禅しなさい、ということが暗黙の至上命令ならば、古代インドの大乗仏教の人々とは違って、がんになって心理的にも悩む檀家信者に対して、自殺にならないように支援する活動は期待できないということになります。 もちろん、仏教の学者(大学の)はしないでしょう。学者は本務がありますから。研究(文献研究が主)、論文執筆、学生への教育が主な任務(人生の価値)でしょうから、継続的にがん患者の悩みを聴くことに時間とエネルギーをさかないでしょう。実際の臨床支援を人生価値とはしないわけです。 では、一体、どういう人的リソースが、現状では不十分であるところの心理的な手法を用いての自殺防止の研究をしているのでしょうか。 https://blog.canpan.info/jitou/archive/4834 【連続記事】一体どういうリソースなのか =薬物療法で治らないうつ病などが治るような長期的な支援をして自殺を減少させるのは |