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(6)専門家や大学人が自分の解釈を優先して批判者を攻撃、排除するのがなぜいけないのか [2021年07月16日(Fri)]

(6)専門家や大学人が自分の解釈を優先して批判者を攻撃、排除するのがなぜいけないのか

https://blog.canpan.info/jitou/archive/2108
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3046
 ★うつ病が治らないひとが2−3割
   治らないから自殺されていく! 
   うつ病は、「自殺したくなる」という深刻な症状がある。

 前の記事で、社会心理学によって、自分の大切にしているものを批判された時、攻撃心が起きることを指摘していました。学問的議論さえもしない、批判者を排除する。なぜ、そういうことがいけないのか。自分のものを強く固執するために(大淵氏によれば自利です、私利私欲です)、革新説を排除することになり、広く社会の人の救済を妨害することになるからです。

 社会心理学者大淵憲一氏、榎本博昭氏やフランクルが指摘したのは、うつ病、自殺のことではないのに不思議にも、この領域にも該当します。

 うつ病はこのような深刻な病気です。変調が広い領域にわたって、治らない場合、自殺がある病気です。
 https://blog.canpan.info/jitou/archive/1119
 https://blog.canpan.info/jitou/archive/4846

 学生や家族にも、治りにくいうつ病のひともいます。

 治療法は薬物療法が主ですが、治らないひとが、2,3割います。
 https://blog.canpan.info/jitou/archive/2108
 https://blog.canpan.info/jitou/archive/1932
  ★ここに、うつ病が治らない人が何割という記事へのリンク

高校や大学で禅は目的をもたないのだと教えられた学生

 私の知る限り、大竹晋氏の指摘された大乗仏教をまさに体現したような僧もいて、うつ病だったひとが禅で治っていくのを見ました。私もそうでした。その僧(故人)は、目的をもたないとは強調しませんでした。心の病気の人を受け入れていました。
 もし、学校で、禅は目的を持たないのだと教えられたら、学生時代や卒業の後、うつ病になった時、薬物療法を受けても治らなかった場合、「禅で治り助かるかもしれない」とは思いつかないでしょう。その人は、治らずにずっと社会参加ができずに、自殺するかしれません。
 教育者が、強く還元主義的な解釈を学生に教えると、こういう不都合がおこります。教育するひとは、悪意はなくても、学生やそのひとが後に悩んだ時に、「禅をやってみようか」と思い、うつ病のひとを支援する禅の人を訪問して救済されるかもしれないという社会の利益を妨害することになります。ひとはみな、知らないうちに、罪を犯しているかもしれません。
 フランクルは、精神科医ですが、還元主義、画一主義、全体主義を批判したのは、似たような例ではないでしょうか。

禅は目的をもたないでするのが尊いと教えられた若手の僧

 禅の教育者が、若手に「禅は目的をもたない」と教育すると、同じです。自分や家族、檀家信者がうつ病になって、薬物療法で治らない場合、禅をすすめることはないでしょう。しかし、禅で治るひともいます。教育者は、知らないところで、寺族、檀家信者の救済から遠ざけたことになりませんか。
 マインドフルネスのうち、SIMTでは、うつ病が治るひともいます(すべてではありません)。 SIMTは、禅で悩むひとを救済する禅僧のものと似たところがあるからだと思います。 SIMTでは、対人関係で感情を起こすのは、自分の評価基準(本音という)で評価するからだといいます。禅も「我見我執」といい、本音と似ています。坐禅時、瞑想時だけではなくて、対人場面での観察を重視することが類似します。坐禅、対人場面ではない時にも、 思い出しては、我見我執、独断、自己中心的な見方(=本音)で評価して考えている時にも、観察します。 「目的を持たない坐禅」というところでは、そういう観察くふうはないでしょう。

 上記のような、あるところ(解釈、思想、命題、仮説、学説、科学的知識など)を強く固守するところでは、時代の変化によって生じた新しい問題に応じた解決策、革新は生まれそうもありません。
 一体、だれが心理的なストレスによるうつ病が治らないで自殺するひとがいるという新しい問題の解決のために、行動するのでしょうか。このような心理的な問題ですから、大乗仏教としては「利他」の重要なテーマではないのでしょうか。仏教は心理的な苦悩を救う支援をするものを利他というのではないでしょうか。

 大乗仏教は、我見、身見、我利我執に気づいて抑制せよと言います。ある解釈などに留まるなといいます。文字で定義すると、時代の変化に合致しなくなります。時代によって変化して、新しい問題が起きることを感じていたのだと思います。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3599
★日本の仏教も、無評価観察のマインドフルネスも 「死」の問題は支援できない。大乗仏教の核心であるはずなのに。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4806
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4120
★学者は自分の説を超える革新をいう学生、市民を嫌うことがある。それが公益を妨害する
★長老、権威にあらがおう。学問も陳腐化、ないし、学説の外が見えていない。企業なら、倒産するような時代遅れ環境にあわないもの・ことを専門家、学者は押しつけることがある。それが、自分の生きがいだから。しかし、組織員や外部のものの自由を奪い、いのちをうばう。公共の利益よりも自己保身、自己の利益を固守する専門家。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3962
★西田幾多郎による仏教者、仏教学者への批判

https://blog.canpan.info/jitou/archive/2555
★中村元による批判

https://blog.canpan.info/jitou/archive/2425
★どこにもとどまるな。人々の苦悩は時代環境によって変化する。とどまると、領域、環境、時代に適応しなくなる。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/2427
★禅定の喜びにとどまるな、禅が最高、究極だと思うな。どうして、苦悩する人を無視、傍観するのだろう。

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★文字研究の学者の行為と臨床とは全く別の行為
 長期間の臨床が必要な領域では、学者が臨床者を排除するのは私利私欲、臨床者による国民の救済を妨害。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4630
★自分に有利な言葉を抽出、自分に有利な解釈を構成し、押し付けるエゴイズム。結果的に公益を害し生命を失う人まで出てしまう。叡智的自己の闇の心。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3686
★我見、身見、我執、自分の見解に執着して、他者を苦しめる、苦しむ人を見て見ぬふりする、そういう自分の学説、思想など自分のものが批判されると誠実な革新説を排除しようとする。

 大乗仏教や禅も、還元主義、画一主義、全体主義を捨てよといっているとおもいます。こう考えると、大乗仏教は、現代にも色あせていない人間の闇を指摘しているようでもあります。 何度もいいますように、大乗仏教は、空海、華厳経として大変深く人間を観察しているそうです。(竹村牧男『唯識・華厳・空海・西田』青土社)

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4022
★無評価の観察もいい、ある種の問題の支援になる。しかし、 そこに留まってはいけない。もっと、深い問題を解決できる観察法がある。大乗仏教、西田哲学、鈴木大拙がいうとおり。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3589
★対人関係、仕事の現場には種々の評価が
 その時に、自分のエゴイズム(闇の心) を観察抑制、相手のエゴイズム(闇の心)を見抜き時には抗い、時には離れる

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3838
★正しさをごり押しする人=仏教でいえば、利他もしない実践や解釈で、われこそは正しい」と押し付けていいのか。何のための仏教か。自分は他者から恩恵を受けるはずだが。

地位ある人は自分の思いどおりにしたい
 =だが、他の人も自分の自由が欲しい、抑圧されるのは嫌だ

 心理的、宗教的な領域の専門的なスキルの教育者は、どうあればいいのでしょうか。上記のように、画一的な解釈を「強制」するのではなく、 他の解釈もあることを認め、他の解釈も説明して、どれを取るかは自由であると伝えればよいのではないでしょうか。そして、種々の解釈を持つ人を排除せず、それぞれを必要とする異なる受益者のために働き、教育者も受益者も多様なグループが共生していく団体になればいいのではないでしょうか。
 これまでの力ある人が自分が地位を失うのではと心配するようなことは起こりません。深いものを理解しない人、好きになれない人、必要としない人が多いものです。たとえば、「死」の不安を探求できるという深い仏教があるとしても、若い人は見向きもしないでしょう。若いひとは、素敵な環境でひと時のストレスが解消されればよいとか集中力の向上になるのがいいとかいうかもしれません。
 実際、仏教やマインドフルネスも、深い哲学をいうものや公案のような厳しい方法をいうものは難解であるためか、多くのファン、実践者を獲得していません。 本当に、深刻に悩む人には、深い哲学を基礎にした実践、うつ病を改善して自殺しないで済むような方法を団体内の誰かに開発して伝えてもらいたいものです。こういう支援者になりたいと思う人は多くはないはず(苦労が多いから)ですから、決して他のものが排除されることにはならないのです。
 すべての人が同じ趣味、同じ職業などを好きにはならないように。

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★難治性のうつ病の治療をできる人材もなく、治療法もない

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★専門家は支配欲が強い=哲学者 板橋勇仁氏

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3027
★専門家は偉いと思われたい

https://blog.canpan.info/jitou/archive/2787
★西田哲学=専門家はエゴイストになりやすい

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3052
★意味的枠組みに縛られる=井筒俊彦氏

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4246
★科学知と自己洞察知は異なる=科学者はかえって自己知がない(西谷啓治)

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4821
★マインドフルネス心理療法SIMTとは
(3)特に対人場面で起きる本音を観察
 言葉や行為が自己保身、自己利益優先となって他者、団体、社会の利益を害する、そういうエゴイズムではないか評価すべき。


https://blog.canpan.info/jitou/archive/4834
【連続記事】一体どういうリソースなのか
 =薬物療法で治らないうつ病などが治るような長期的な支援をして自殺を減少させるのは
Posted by MF総研/大田 at 18:48 | 自殺予防対策 | この記事のURL