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6)Goal 4は質の高い教育をみんなに [2021年01月12日(Tue)]
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6)Goal 4は質の高い教育をみんなに

 質の高い教育のためには、多数派の説だけではなくて、現状を批判する少数の学説も教育しないと公平とはいえない。

 いくつかの団体、大学では、仏教学、禅学の多数派説のみが教育されている。批判する説を排除している組織、大学もある。「マインドフルネス」も「宗教を排除」したものというひとが多い。宗教は悪いものと無意識で思っているのだろうか。ハリファックスは、死の淵にいる人のそばで宗教的信念で貴重な貢献をしているのに。

 学者や僧侶の評価基準と、自分の苦悩や社会問題を解決したいために、人間の心というものの真相の事実を知りたい人とは評価基準が違っているのだ。学者には、論文の数や学生への教育が重要だろう。高い地位を得ている僧侶は、組織の維持が重要な基準かもしれない。
 学者や僧侶が、「これが釈尊、開祖の真相だ」と主張する。それで満足できる立場ならいい。しかし、そんなものが仏教、禅の真意であっても、「私の苦悩は解消されない」 「私が関心を持つ社会問題の解決が私の生きがいだ。それが解決できそうもない仏教や禅の解釈による学問は私は評価しない。」と思うだろう。
 学者や僧侶が、いくら「これこそ釈尊、〇〇の真相だ」という膨大な書籍を発表しても、「昔はそれでよかったかもしれない。しかし、今は時代が違う。それが、「私自身の現実の苦しみの解決」「私が生きがいをもって取り組んでいる社会問題の解決」に直接的に、現実に応用できないのであれば、高く評価しない。」こういうだろう。

 「あなたの学説がそんなにすばらしいならば、現実の現場でやってみてくれ。」というのではないだろうか。結局、評価基準が違うのだ。ブームの「マインドフルネス」は無評価だというが、それがいいと評価しているのだ。だが、そ れだけが自己観察の学問だと思わせるような教育は問題である。現実の生きる現場は「評価」だらけだ。無評価だけでは、 現実に苦しい人、今にも死にたいという人、難病でもういつ死ぬかわからない死におびえる人、犯罪の被害で苦しむ人、親の愛を感じない虐待された苦をかかえる人には、響かないだろう。現実の苦しいと評価せざるを得ない人々の問題を解決するための「マインドフルネス」の学問も必要であるはずだ。

 宗教は、自分の苦の解決、社会の人の苦の解決や自己とは何かという問題に応えるものであるという。それなら理解できる。しかし、「縁起の思想の理解が仏教の真意だ」「開祖の思想は坐禅が尊いというのだ。坐禅さえすればいい。利他の実践は無用である。」というのが学問では正しい解釈であるとしても、今のこの時代の、この日本の、この私の家族がいて、この職場にいて、現実の苦悩を解決できないならば、そのような学問は、私には響かない、ということであろう。

 それならそれでいいのだが、本当にそれだけだろうか。平安末期から鎌倉時代初期の当時は、出家の自由はなかった。利他の実践もできなかった。住民の苦悩は武家や公家がもたらしていた面もある。出家は家族、職業を捨てた。そんな時代には、外部の住民に向かって、苦の解決支援(利他)をすることは難しかった。だから、坐禅をすることが強調がされるのは、当然であった。しかし、それを時代や状況が違う現代の僧侶で、家族も職業を持つ者に向かっていえることではない。出家の若い人たちも、心理的に苦悩する檀家信者にかける言葉に困る。 とまどっているのではないのか。
 家族、職業を持つものにたいしても、ただ坐禅せよといったのだろうか。我見、我執を捨てよ、という言葉が随所にみられる。とすれば、ただ坐禅するだけではないのではないのか。そこに、現代の家族、職業を持ち、ちからある者からのハラスメント、差別、排除が渦巻く現代社会で生かすことができる教えが、開祖の思想や言葉の中にないのか。そういうことは教育されない。坐禅と沈黙だけが教育される。学問が本当に開祖の思想をとらえているのか。
 もし、在家に対する利他の教えはない、ただ坐禅するのだというのか真相だというのであれば、やはり、西田幾多郎が批判するだろう。坐禅する人間も食料、住居、電気、ガス、水道、家族ともども医療、教育サービスを受けることなどが必要だ。それは、布施してくれ、私らは坐禅する、というのでは、現代では、もう通用しないのではないか。食事代さえもなく、自殺していく在家もいる。

 大乗仏教は、ただ坐禅するだけだとは言わない。自己成長、自内證、利他を強調した(大竹晋)。そういう3つは、開祖にはないのか、学問がそういう面もあったことを明らかにしたとして、それを教育するところがほとんどない。しかし、一部の仏教学者や哲学者は、道元、親鸞などにも、深い自己を自内證することがあるという。つまりは、学問的な解釈の違いだ。違いは大きい。何が真相であり教育してほしいか。利他が特に大きい。現代も苦しむひとが多い。その宗教は支援できないのか。開祖はそんなに冷たいひとだったのか、と思うのが人情だろう。

 最近、欧米から輸入の「マインドフルネス」が世界的にブームになっているようだ。坐禅に にている。人々の苦悩の解決にかなり貢献している。 目的を持たない坐禅がなぜ尊いのか、わかりやすく説明してほしい。他の職業は、みな、何かの世界創造行為(ポイエシス)をしているが、静かな場所でする目的のない坐禅は、世界創造ではないと西田はいう。今は、教団も社会内存在であるはずで、わかりやすく教育してほしい。
 仏教はこういう側面は全くないのだろうか。大竹晋氏の大乗仏教の核心もあり、それをも考慮した学問的な再検討をして、我々に教育していただきたい。学生、若い僧侶、一般社会人に納得できる表現での教育をお願いしたい。「マインドフルネス」は「宗教を排除」したものというひとが多いが、そういう人たちにも。

 中村元氏は、慈悲(=他者救済)に薄いのは、仏教ではないと慈悲を強調した。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/2553
https://blog.canpan.info/jitou/archive/2555

 竹村牧男氏も仏教学、禅学は再検討すべきだというのは、こういう事情からだろう。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3470
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3471
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3476

 何が学問的な真相なのだろう。納得できる質の高い教育を受けたい。

 質の高い公平な教育について考えてみた。

http://mindfulness.jp/sdgs/21-goal-4.pdf

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4750
http://mindfulness.jp/sdgs/21-goal-10.pdf
★男女平等の禅の哲学、西田哲学も

 現実の問題を解決できる基礎になる学問も教育すべきだろう。学者が地位、名声をたてにして、現実の現場で取り組んでいる実務者を排除することがある。こういうことを是正しないと、目標4は実現しないだろう。環境が激しく変化している。仏教、禅、マインドフルネスの学問も少数説をも排除せず、公平な教育が受けられるような仕組みはどうやって実現するのだろうか。

 ちょうど、埼玉新聞(1月10日)に哲学者上智大特別研究員西島佑さんが、問題提起している記事があった。
 「意のままにならない相手とも、 それなりにやっていく日常の訓練が忘れられている。」

 学問的な批判であるのに、多数派、従来の説派は敵対して、少数派を排除する、そして分断。大学でも起きている。

 上記にブームの「マインドフルネス」は、痛みの緩和などに貢献しているといったが、 「マインドフルネス」は「宗教を排除」したもの、科学的だという不可解な言葉がとびかっている。上記の中村氏、竹村氏が宗教、仏教は慈悲利他(他者の苦悩の解決支援)という貢献をするものであるのに、マインドフルネスは「宗教を排除したもの」という解釈が出ているのは、重大な問題であろう。宗教を敵視するようなニュアンスのある「排除」という言葉である。「マインドフルネス」の学問がそういう解釈を生むのであれば、分断を助長しかねない。

 自分の解釈、正義の執着、心の闇の観察、自己抑制が教育されず、教育者が学問的批判者を排除する。「宗教を排除」という言葉がでてくる。こういう態度は、SDGsの共生に違背するだろう。心の探求に関連する仏教、禅、マインドフルネスの学問がこんな教育をきれていいのだろうか。
 質の高い教育が行われる社会の実現を望みたい。これは、とても、難しい目標である。
【ホームページの目次】
http://mindfulness.jp/sdgs/mokuji-sdgs.htm

【ブログの目次】マインドフルネスSIMTによるうつ病などの改善はSDGs(持続可能な開発目標)に関係する
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4713


Posted by MF総研/大田 at 20:57 | SDGs | この記事のURL