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脳科学者は対人場面では気づき評価するといっている [2020年12月16日(Wed)]
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脳科学者は対人場面では気づき評価するといっている

 「宗教を排除」というおだやかでない表現は、「無評価で観察」という手法が背景に理論なり思想なり哲学なりがないために出てくる表現なのかもしれない。MBSRには、思想も哲学もなく、ただ手法があるだけである。一方、宗教には、思想や哲学がある。
 そして、宗教には倫理道徳がある。殺すな、不倫するな、うそをつくな、他者を不幸にするな、などである。MBSRには、用いるもののこういう倫理規範もない。
 今、これをブログで発表している。良い、くだらない、などと評価される。 SNSなどでも「いいね」と評価される。誹謗中傷も起きる。 こうした、ネットの世界も学問の世界も「評価」する、される場面である。「瞑想の時」だけが「無評価」ですむ。(厳密に意識しにくい評価があるが)

 瞑想場面でない時は、必ず「評価」する。だから、「無評価での観察」は、対人場面や仕事の時には、実行できない。言葉や態度、行動が「評価」される。だから、MBSRは、そういう場面では、用いることはできないだろう。反論があれば、していただきたい。

 脳神経の研究者も、対人場面では評価するといっている。一例を掲載する。

 「対人場面、社会的状況では、他者のわずかな表情の変化を、意識的であれ、無意識的であれ、私たちが気づくことができるかどうかは、とても大切である。自分の何気ない一言に相手ががむっとした顔をしたのであれば、次の自分の一言には細心の注意を払わなければならないし、唐突に相手の表情が何かにおびえた様子になったのに気づけば、相手が何を怖がっているのか、周囲や自分自身の態度に注意を向けることが大切だろう。」(村井俊哉「社会脳と精神疾患」、苧阪直行編『社会脳科学の展望』新曜社、P117)

 ポージェスのポリヴェーガル理論でも、無評価の「マインドフルネス」を用いる場面の限界をいった。大乗仏教や道元も、人は煩悩によって自己中心的な評価をするものだといった。
すべての人が自分の言動が倫理的、道徳的であるか

 無評価の観察が生きる場面は瞑想時に限られるだろう。今、まさに、 新型コロナ感染症の渦のなかで、人のことば、行動が評価されている。あたり前である。 数値の変化を正しく評価しなかったために、患者が急変して死んだ事例が報道された。 薬の製造過程で他の薬品が混入して服用した患者が死亡した事例もある。成分のわづかな数値の変化があったのに異変を評価できなかった。
 とにかく、仕事の場面は評価の連続で、その評価に、自己保身、ハラスメント、排斥、差別などの「闇の心」が働くことに気づき、自己他者を不幸にすること、すなわち、自己他者の価値実現を妨害することを防止することが重要である。かなり高度の自己観察が必要になる。自殺も個人だけの問題ではなくて、社会問題で起きている不幸が多い。
 家庭、職場、病院、学校などでは、無評価でない観察手法が研究開発されるべきである。ACT,弁証法的行動療法などは、無評価の観察も行う場面と、それをこえる観察があるようだ。

 「マインドフルネス」の学問は始まったばかりだ。「宗教を排除」という言葉は、「差別的」だ「嫌悪」の評価が含意されていると「評価」されかねない。宗教において行われてきた「観察」は、2千年の歴史がある。そこにすぐれたところもあると「評価」できるところは認めて、現代に貢献できるところは活用していく研究をしたい。「宗教を排除」「宗教性を排除」という言葉は、妥当であるとは「評価」されないと思う。
 「無評価の観察」だけが、科学学問であるというのではなくて、それを超えた観察のマインドフルネスもまた、学問的に研究開発しなければならない、それを必要とする領域が広いことを理解していただきたい。薬物療法や「無評価観察のマインドフルネス」でも治らないうつ病、非定型うつ病、PTSD,パニック症などがあれば、それを支援すること、自殺を防止することも、命にかかわる重要な課題である。

 「無評価の観察のマインドフルネス」で成功してそれに生きがいを見出した人も 叡智的自己として価値を遂行する人となる。研究者、学者といえども、自分の技術、理論に執着すると、救済されるべき人の救済を妨害する。自殺が多い。マインドフルネスには、うつ病を改善し、自殺を防止する領域もある。

叡智的自己
https://blog.canpan.info/jitou/archive/2991
https://blog.canpan.info/jitou/archive/2768

【参考記事】
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4003
★無評価観察のマインドフルネス即「科学」ではないはず

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3428
★宗教レベルと、宗教でないレベルを哲学的によく理解したうえで
【連続記事・目次】宗教は排除すべきものですか? どこから?
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4701
Posted by MF総研/大田 at 21:18 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL