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(8)無限の中に安住する――四無量心の中に住む [2020年11月18日(Wed)]
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4683
★相談会(埼玉県)
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【書籍紹介】「死にゆく人と共にあること〜マインドフルネスによる終末期ケア」ジョアン・ハリファックス

(8)無限の中に安住する――四無量心の中に住む

 5章は、「無限の中に安住する――四無量心の中に住む」です。 四無量心は、上座部仏教の瞑想の対象の一つですが、ハリファックスの四無量心は、大乗仏教的な意味をもたせているかもしれません。後で指摘するように、不思議な言葉があるからです。 4つは、慈悲喜捨です。
慈とは、慈しみ」、相手の楽を望む心
悲とは、憐れみ」、苦を抜いてあげたいと思う心
喜とは、「喜び」、相手の幸福を共に喜ぶ心
捨とは、「平静」、相手に対する平静で落ち着いた心
とされます。

 以上が、表面的な意味ですが、ハリファックスは深い意味をこめています。そこだけを抽出します。

  「四無量心の最初は「慈しみ」です。・・・ 私たちが大いなる全体の一部であることを理解する助けになってくれます、・・・ 私たちが時間や空間のなかの、ある固定した一点と一体化しているときは、いつも自分の存在の広大さに心を閉ざしています。」(p73)

 最後の文が不可解でしょう。前半の自己は大きな世界の一部は、すぐわかります。しかし、後半の「自分の存在の広大さ」が一見不可解でしょう。対象的にだけみると、自分は世界の中に生きています。自分は小さいです。しかし、自分の中に世界があるほど、自己は広大です。以下にも出てきますが、対象的な自我が空である、と悟った時、すべてが自己となる、、、。すべてが自己根底の超個の転成したものとなる。

 「二番目の無量心は、「憐れみ」です、・・・憐れみとは、理想化された状態ではありません。それは、私たちが互いに分離していないという深い理解のことであり、・・・・ 究極的には主観も客観もありません。・・・非二元性から放たれる芳香です。」(p75)

 意識される自己は真の自己ではない、それが無となって、自我に死んで、自他不二になった境地ですね。ハリファックスは、ベトナムの臨済宗のテクナットハンの流れをくむ禅の人ですね。 絶対無、超個を悟り、すべてが絶対的一者の自己否定態であるというのでしょう。山河大地だけではなくて、他者までも自己と一体でしょう。

 第三は喜びですが、やはり深い説明があります。ふつうに読めば、利他の喜びですが、ハリファックスは次のような深い根底を見ています。

 「三番目の無量心は、共感的もしくは高貴なる「喜び」です。―――利他的な喜び、すなわち他人を理する喜びを生み出すことです。」(p76)

 「大震災で人々が苦しんでいるのをみても、支援に行かずに坐禅をするのだ」といったことが大学で教えられていますが、全くこういう無量心のない思想です。こういうことが大学で教えられています。人々から日本の仏教に失望するでしょう。つらい人は、上座部の仏教やマインドフルネスに向かうのでしょう。
 共感も利他の喜びもない人は死にゆく人と共にいることはできないでしょう。ハリファックスの「喜び」の中の説明に不可解な言葉があります。死にぎわの人を見守っているのですが、・・・。死にゆく人に喜びを示すのです。

 「私は、彼の苦しみをとおして、苦しみから解放された場所に目を向けている自分に気がつきました。私は愛情をこめた喜びを示して、彼の不幸にふれました。」(p77)

 「私たちは、自分の目の前にある痛み、苦しみ、神経症、そしてみじめさの実物の教科書ばかりに目を奪われてしまうことがよくあります。もっと深く見てください。そして、この人のすばらしい心を見つけだし、それを自分のすばらしい心と出会わせるのです。」(p78)

 「場所」とは、深い心の場所のようです。アクセプタンスコミットメントセラピーの「文脈としての自己」でしょうか、弁証法的行動療法の「賢明な心」でしょうか。超越的宗教を研究している哲学者のいう「超越」「絶対無」「仏性」でしょうか。

 「四つめの無量心は、「平静さ」です。・・・・」(p79)
 「平静さとは、部分的でない状態であると考えられます――――「偏りがない」ということではなく、「部分的では、ない」ということです。」(p81)
 「死にゆく人の傍らで坐っているとき、そして私たち自身が死ぬとき、恐れや苦しみから解放されるというヴィジョンをどうか忘れないでいてください。このヴィジョンの実現へと至る道は、高貴な旅路です。そこには大変多くの障害物があるので、私たちには強さと個性が与えられます。」(p83)

 「部分的でない」というのは、ジョン・カバット・ジンがいう「全体性」に関係するでしょう。ここでも触れました。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4687
 「全体」「部分」は、第6章で詳しく述べられています。

 「私たち自身が死ぬとき」とは、自分の生物的な死ぬときではありませんね。禅の人がいう「生きながら死人となりて」でしょうね。基体としての自分はないと悟りの体験で、わかること。昭和の時代には、それを教える禅の本が多数ありました。
 ハリファックスのいうことも、簡単には体験できないことは、このヴィジョンに到る道は高貴で、障害があるということでわかります。西田哲学の研究者は理解していますが、仏教の学問ではごく少数です。しかし、学問的な真実は多数派が正しいとは限りません。
 悩む人に体験を教える僧は日本からは消えてしまったのなら悲しいことです。そういうことはありえます。 アメリカにいますね。どうしてこんなことになったのでしょうか。この分野には、学問の自由がないためだったという感じがします。
 (実は、出版社もメディアも発掘できていませんが、知られていない僧がかなりたくさんいます。禅の学問をする学者が体験を否定するので、そういう深い体験を教えるひとが大学などで教えられず、本も出版されないのです。いるけれど知られないのです。
 ハリファックスのこの本が出てハリファックスのプログラムが日本で教えられる状況になれば、その深い宗教哲学も研究されるでしょう。そこから、日本の仏教、日本の禅が再検討されるかもしれません。自由がないと学問は真実を明らかにできず、国民のためのなりません。)

 (第6章にも、ハリファックスの深い言葉、不可解な言葉があります。)
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4687
【書籍紹介】「死にゆく人と共にあること〜マインドフルネスによる終末期ケア」
 ジョアン・ハリファックス、井上ウイマラ監訳、春秋社、2015
Posted by MF総研/大田 at 22:48 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL