CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る
«大学生の1割が「うつ状態」・秋田大学の調査 | Main | NHK 朝ドラ「エール」に、至誠の人 永井隆 (2)»
NHK 朝ドラ「エール」に至誠の人 永井隆(1)「長崎の鐘」 [2020年10月22日(Thu)]

NHK 朝ドラ「エール」に、至誠の人 永井隆 (1)「長崎の鐘」

 歌謡曲「長崎の鐘」を私は、カラオケでよく唄います。背景に、悲しいエピソードのある歌です。決して、戦争や核爆弾を使ってはならないことです。 そのモデルになった永井隆博士がNHK テレビの朝のドラマ「エール」に 登場しました。

 テレビでは、永田武の名前になっています。 私が尊敬する人の一人であり、 「マインドフルネス心の世界遺産」に 指定しています。「至誠の人」です。

 この人が、被爆直後に住んでいた家が「如己堂」と名付けられて、保存されているという。行きたい、行きたい。行ってみたい。と前々から切望している。

彼のことは、ここに詳しい。
http://isidatami.sakura.ne.jp/heiwa3.html

 そこで、私は、この人の精神をご紹介したい。

永井隆の生き方

 永井博士の人生観をのぞいてみよう。第一に、人間の小さいことの自覚が必要なこと、第二に、いかに生きるべきか、の2点についてみよう。これらは、心の病にも関連している。
 また、この機会に、キリスト教の聖書と仏教や深いマインドフルネスSIMTで探求する「こころ」の類似点を簡単にみてみよう。

一、 己の小さなこと

みな違う宗教観

 キリスト教と禅は違う点もあるが、似ている点も多い。こころ、や苦悩からの救済がテ−マであるから当然である。苦悩の中に、精神疾患、心の病気がある。
 キリスト教は聖書をもとにしているが、その解釈は様々で多くの教団に分かれている。聖書はイエス・キリストの言葉そのままでなく、初期教団の信者たちの解釈が反映され、変質していると言われる。
 現代では、カトリックとプロテスタントに大きく分かれて、両者の宗教はかなり違っている。プロテスタントもまた、様々に分かれている。しかし、聖書の言葉でもイエスの言葉と思われる部分は、仏教、禅、マインドフルネスに通じるものがある。イエスも人間であり、覚者(禅と同様の悟りを得た人)であったと見る学者もいる。その点から聖書の言葉も永井博士の言葉も、仏教、禅、マインドフルネスと類似した解釈ができる面もある。こころの探求、精神疾患の治療と重なる部分がある。

◆「 」は永井博士の著書の引用、
◇『 』は聖書(新共同訳)の引用、他は、大田の解説である。

○頼りない自分
◆「かえりみれば、この子に絶対に頼まれているつもりの私みずからが、その実頼みにならぬ人間ではないか?私みずからすでに天なる父に依り頼まずには一秒たりとも生きてゆかれぬ弱い人間ではなかったか?」    (A72)

 「自分」とは、頼りにならぬもの。いろいろな出来事で、精神的な病にかかったり、自殺したりする人が多い。夏目漱石も、留学中に神経衰弱になったこともあって、自分は頼りにならない、と言った。人間を探求した小説家にも自殺した人が多い。「自分」は頼りにならない、弱い者という自覚ある宗教において、真にそれを自覚した人は、人生観が大きく変わる。
 第一に、他者も同様に弱い者として哀れみの心がわく。第二に、全く自分では何もできないという徹底した「無」である自分であるのに、それでもこの自分が生きているということに思い至るとき、自分を生かす何者かの存在を感じる。キリスト者は、それを神というのであろう。禅者は、自己の外に、何も規定しないが、自我を超えた大きなものと自己が一つであること、しかしあくまでも自己は無である低いものである(人間はあくまでも絶対者ではない)ことを悟る。
 マインドフルネス心理療法のカウンセリングを実践した人は、不快な事象を自分の判断に頼りすぎて、かえって苦しめていたことに気づき、不快な事象を受け入れようというこころになる。

◆「私は神の御意のままに、おん手の先につかわれる一つの道具にすぎなかった。」(A73)
◆「私は注射器であった。私がこわれて亡くなっても、私を使っていた神がそのままおられるのだから、何か他の手段でこの子の苦しみを癒してくださる。私は綱にすぎなかった。私がついに水底に沈んでも、私を投げた神がそのままここにおられるのだから、必ずこの子を荒波から救い上げてくださる。−−何も心配することはないじゃないか?」(A73)

 私は、絶対者の道具、注射器。自分の小ささの自覚、自我の否定が、こういう言葉となる。禅では「無我」という。マインドフルネスでも、つらいことを受容することを言う。自分は、実体がない。すると、自分は絶対的一者(神)によって創られたものという自覚になる。 陶芸家河井寛次郎も似た心境であった。人間国宝ほどの陶器を制作したが、名誉を辞退した。私が作ったのではないと。
 自分の死が迫っていた永井氏の心配は、二人の子供であった。しかし、神の存在を信ずる永井氏は、二人の子供にも神の愛が注がれることを信じ、子供の養育を神に託した。それによって、自分の死後の二人の行く末について苦悩することをやめた。  死に近いマインドフルネス心理療法の実践者も、今を真剣に生きて、将来は将来にまかせるだろう。

○本来無一物
◆「元来私は無より神の愛によって創造された。母の胎内に宿った時が私の創造であった。その時以来今日に至るまで、私の得たすべての物は皆神の与えたもうたところである。健康、才能、地位、財産、家族など、すべて元来私の所有ではなかった。だからいつどこで、これらのものを取り上げなさっても、私が損をするわけでもなく、また得をするわけでもない。別に嘆き悲しむには当たらない。御摂理のままにお任せするのが当たりまえである。そして御摂理はつねに感謝し賛美せらるべきものである。なぜなら、神は愛する一人の人間を創造になった。それが私であったからである。神は私を愛したくて、私を創造なさった、神に悪意の創造はない。神はつねに私を愛し、絶えず私の幸福を願っておられる。」(A29)

 永井氏の言葉は、禅の「無我」「本来無一物」「絶対無」に通じるものがある。また、親鸞の「聖人のつねのおほせには、弥陀五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり、されば・・・」に通じる。「それが私であった」 ほかでもない、私と神(仏)の関係である。
 「無我」「無一物」は、すぐ「「我でない我」、神(仏性)そのものと一つの我」という自覚に出る。これは、思想や知性での理解でなく、現実に、無我を体験した者のみが感得する自覚である。人間の親でさえ、わが子を殺さない。まして、私は神(仏)の子、私を創造したのが神(仏)であるから、いつも神(仏)からの愛と働きがある。このことを自覚した人は精神的に安心を得る。もう何にも(教会、聖職者、僧侶、聖書、経典、学者、など)頼っていない。

 死が近い人のターミナルケアの支援ができる。

○それは常に我と共に
◆「私らの父なる神はそんな神さまとは違う。一定の神殿の奥なんかに引きこもってはいない。どこにもあまねく在(ましま)す。ここにもいなさる。今ここにいなさる。私が亡くなって後もカヤノのすぐそばにいなさる。誠一は神に抱かれている。いつも抱かれている。人が婆(ばば)になり、じじになっても抱かれているのである。」(A81)

◆「そうこうしているうちに原子爆弾を受け、はじめて完全な幸福を手に入れるためには宗教による他はないことを知った。完全な幸福は神と一致することであった。−−私はいま幸福である。そして二人のわが子も、この心境をももつように祈っている。」(A96)

 永井氏は「神と一致」しているという自覚があった。神は教会や神殿にはいない。ここではない天国にもいない。いつも今の自分と共にある。永井氏は、精神的に教会から独立している。キリスト教のうち、特にプロテスタントは教会や聖職者の権威を認めないようだ。神の国は、来世のことではない。しばしば、宗教で「終末」が言われ、神の来臨は、歴史的将来のことと信じている人々もいるが、永井氏は「すでに」神と共にいる。次の聖書の言葉のとおり、永井氏のように、すでに神とともにある、という自覚にいたるキリスト者がいる。

 (このことは、遠藤周作のキリスト教に近いように思うがいかがだろうか。)

◇『神の国は、見える形では来ない。「ここにある」「あそこにある」と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。』(ルカ17−20)

 禅の人も、自我の実体のないことを悟り、仏性そのものである自己の存在を自覚するという者がいる。一人の人間が、キリスト者と禅者を兼ねることはできないから、断定できないが、釈尊の悟りとイエスの神の国の自覚とは、同一の直観体験から起こっているのかもしれない。(花園大学の教授だった秋月龍aは、キリスト者でもあり、禅の自覚者でもあったが)

 日本の、自己の観察、つまり「マインドフルネス」は浅いものから、深いものまである。 観察を続けていると、永井氏のような境地になる人もいる。 マインドフルネスには、宗教ではない段階と宗教的な段階まである。学術的には、哲学で扱う領域である。偏見で排除してはいけないと思う。がん患者さんは宣告後、1年以内に自殺する人が多いという。そうならないように、死の不安の心のケアには必要であると思う。哲学的に支援できるはずである。 両方とも、そのレベルで苦悩する人が多いのだから、両方が必要となる。「枠」を作ると、それを越える問題で苦しむ人を支援できなくなる。
 NHKのドラマで永井博士にお目にかかれて嬉しかった。

永井隆ー参考文献
A.『この子を残して』 永井隆 発行所:サンパウロ
B.『長崎の鐘』    永井隆 発行所:サンパウロ


(続く)
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4675
【目次】NHK 朝ドラ「エール」に、至誠の人 永井隆=「長崎の鐘」

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4784
★「長崎の鐘」永井隆の英語版

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4685
★私の友人が永井隆にあっていた。その兄が永井隆の教え子の医師だった

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4681
(7)至福直観
  =ターミナルケア

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4680
(6)自己の本性に目覚める
  =目覚めていなさい

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4679
(5)人生の目的は神を知り愛し仕えて天国の幸福を得ること
  キリスト教の聖書にも「我を忘れた状態」という体験がある

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4678
(4)永井氏はキリスト者であるが黙想して深い体験があったのか

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4677
(3)永井隆の宗教批判

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4676
(2)いかに生きるか

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4675
(1)己の小さなこと
Posted by MF総研/大田 at 21:47 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL