(3)差別心、利己心は意図的か [2020年09月18日(Fri)]
(3)差別心、利己心は意図的か前の記事の注書きから展開しました。「無評価で見る」ということを科学者は絶対視させないでください。絶対視すると、それこそ「宗教」ではありませんか。自己の意識の観察は、見ることのほかにもあるし、無評価だけでない方法もあるからです。 見ることのほか、考えにも、行為にも差別心、優越心、利己心などがあるかないか「評価」することは「宗教だけ」とは限りません。法的に裁くことが難しい独断的な意見、行為もあります。無評価を強調されると、こういうことを助長させて元健全であるはずの集団を利己的にするおそれがあります。実際に、ありました。 瞑想時以外の社会的行動の時には、自己のすべての作用にあるエゴイズムの心理を評価するべきです。普通、それをしています。さもないと、他者を苦しめます、傷つけます。時には、ハラスメントとか虐待だとか責められます。組織全体を崩壊させることもあります。 「無評価で観る」マインドフルネスを越えたマインドフルネスも学問的に研究して社会の発展に貢献すべきです。見る、考える、欲求する、言語で表現する、行為するなど、すべての意識作用に、独断、偏見、エゴイズムがないかどうかを評価するべきです、 最近表面化したのは、医師による嘱託殺人事件や誹謗中傷です。たとえば、自分の見かたが偏見であり、自分がインターネットで表出したいという欲求が浮かんだ瞬間に評価して抑制すべきですし、表出してしまったら文字として見えるので見る瞬間に言葉が誹謗中傷ではないか評価し、修正するか自ら削除すべきです。 こういうトレーニングも中高大学の教育でも教えるべきだと思います。 さもないと、人を自殺させたり、自分が名誉棄損など法的責任を追及されることになります。そういうことは、世界には何にも貢献していないことを評価すべきです。 世界中に、独裁心、自分の地位収入職業さえよければいいという行動が顕著です。批判、反対するひとを排除し殺害しています。無評価だけでいいのでしょうか。 この問題について、「差別はいけないとみんないうけれど」の意見と関連して考えます 差別心、利己心は意図的か独裁心、利己心や、見て見ぬふりをする2種のことは、広く深い立場から見るカサンドラから批判される人ですが、学者や宗教者、ビジネス人、役人にもいるといいます。人の「自由意志」を認める学者と認めない学者がいます。それと関係します。自由意志があることを認めないと、うつ病などの心理療法のうち、自分の行為を意志で選択する療法ができなくなります。上記のような「闇の心」も、自由意志がないとすれば、気づき変容する教育ができないでしょう。 つらい症状、つらい状況ならば、みな衝動的行為をとるのか。いいえ、マインドフルネスSIMTでは、つらい症状、つらい状況でも、自由意志で価値的行為を選択できるというものです。西田哲学の教えです。価値的行為の繰り返しで、1年近くで回復していきます。 「差別はいけないとみんないうけれど」に次の言葉があります。
「自由意志を認めない被験者は他者への攻撃性が増し、他者にたいする援助行動が減少する、という神経外科的な・仮想的な実験を紹介しながら、自由意志を否定する科学者はその学説が持つ社会的影響を考えるべきだと批判している(*30)。 (*10)小林健治『指針差別御・不快御』311頁 (*30)ダニエル・C・デネット『思考の技法ー直観ポンプと77の思考術』阿部文彦、木島泰三訳、青土社、2015年、532頁。 意図しないでも、他者を傷つけている。意図していないものが自分に見えるようになるためには、相当のトレーニングを必要とする。それが、大乗仏教や道元禅にあったのだが、捨てられてきた。仏教学者がそのような文字を見落とした。意図的ではないだろう。 そういうすぐれた実践を参考にして、さらに西田哲学の実践論を参考にして現代人が実践できそうに構成した 「評価するマインドフルネス」(今のところ日本的)がSIMTであり、様々な領域での心理療法、精神療法にもなると信じている。学問として、さらに研究発展させていただきたい。マインドフルネス瞑想療法士🄬が取り組んでいる。 西田哲学によれば、見られるものは無数の個人(個物的多)によって作られた全体であって見た途端に過去であり、変えることはできない。しかし、個人は見た世界の一角の未来を自由意志で作る、生か死を意志で選択する、破壊か創造かを自由意志で決定できる。人は環境から作られるが環境を自由意志で決断して作る。主体は環境から作られるが、主体的に自由意志で環境を作っていく。 多分、「自由意志」の定義が科学者によって異なるのかもしれない。よく知らない私たちは混乱させられる。 我々は、西田哲学を解釈して、うつ病、不安症、PTSDなどの心理的改善法を構成した。クライアントの環境、症状が不快であると評価するのは自然である。無評価ではいられない、不快だ、嫌だ。しかし、不快であれば常に破壊的行為を選択するのではない。見たもの(環境や症状)は不快である、嫌だと評価するが、未来を自由意志で建設的行為を選択する。改善する方向であると評価された行為を自分の意志で選択する。やらされるのではなく、自分の意志で選択する。そのためには、効果や生きる意味を理解しなければならない。 そのような見方、理解、行為の仕方をアドバイスする。それを理解して自分の意志でできるようになるクライアントは治る人がいる。もちろん、100パーセントではないが。 このように、至るところで評価され、評価することが要求されるのが現実の世界であり、自己の意識を評価する観察(マインドフルネス)も、学問的に研究していただきたい。 学問が、自由意志を否定するものとこれを批判する学問と両方ある。うつ病、ALS患者の死の不安、誘惑と闘う医療のそばに、自由意志を否定する信念、学説を持つひとがいると生きるほうの意志を選択する支援を放棄させるおそれがある。これについて、文献の意見を続ける。 死の淵に立つ多数の人、難病の人、障害を持つ人の支援は難しい。ある種の学問的知識を持つ人自身が、明らかな悪意の意図をもたずに、死を選択させるおそれ。これからもずっと起こりえる。検討を重ねて、見て見ぬふりと親和性のある悪意なしに死ぬことを選択せてしまうことの防止を研究していかねばならない。 (続く) 【文献】 綿野恵太(2019)「差別はいけないとみんないうけれど」平凡社 https://blog.canpan.info/jitou/archive/1812 ★無視・傍観・軽視・放置・見放される病 (2009/9/15) https://blog.canpan.info/jitou/archive/3461 ★「見て見ぬふりをする社会」 (2016/10/24) 【書籍紹介】『見て見ぬふりをする社会』 マーガレット・ヘファーナン、仁木めぐみ、河出書房新社、2011年 https://blog.canpan.info/jitou/archive/4650 (目次) |
Posted by
MF総研/大田
at 12:36
| さまざまなマインドフルネス
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