(19)人間の尊厳や自由が阻害されている [2020年09月13日(Sun)]
【書籍紹介】『アイデンティティが人を殺す』
アミン・マアルーフ、小野正嗣訳、筑摩書房
(19)人間の尊厳や自由が阻害されているマアルーフ氏の指摘する問題は、ヨーロッパや中近東の事情を知ってのことだが、似た状況は日本にもある。マアルーフ氏はいう。絶望せずに、戦おう、歴史的には開放に成功してきた国がある。 だが、自由であるように見える国であっても、多くの場所で専門家(学問、宗教、ビジネス)による抑圧が起きている。もう一度、マアルーフ氏の問題点を確認してから、同じことを指摘している他の人を見ていこう。マアルーフ氏はこのように言う。 「ある社会のなかで不信が広がっているとき、心のもっとも内奥に根ざすものが人と人を結びつける最後のよりどころとなるものです。政治の自由、連帯の自由、学問の自由のすべてが阻害されているとき、信仰の場所が、人々が集まり議論することのできる、そして苦難に対して連帯を感じることのできる場所となります。」(p173) 「学問の自由」・・・。 日本にも、禅、仏教の学問の自由が阻害されてきていると見える。なぜなら、つい最近、大乗仏教の核心は、自内證、自己成長、利他であると解明された。 道元の膨大な著作をみれば、このような3つの核心も各所にみることができる。大乗仏教の本道であり、現代でも魅力あるものと感じられる。ところが、平成までの禅の学問は、これを明らかにしていなかった。異説が主張されない学問の世界。こういう学問であるから、深刻に求める人は、日本の禅に期待できず、当然、日本の禅以外の他の宗教に向かった。悲惨なことは、オウムのようなカルトに向かったことだ。カルトに向かえない人は、東南アジアの仏教に向かった。 マアルーフ氏のいうように、学問の自由が阻害されているのを見た人々は宗教や共産主義などに向かったが、マアルーフ氏の見た宗教も共産主義も、寛容さを失って、自由がなかったという。 「20世紀が私たちに教えてくれたのは、どんな教義であってもそれだけでは自由をもたらすとは限らないということになるでしょう。共産主義、自由主義、民族主義、偉大な宗教、そして世俗主義でさえも、つまり、ありとあらゆる教義が脱線し、異常なものになりうるのです。」(p65) 元来、宗教は寛容、「他者と共存するという素晴らしい能力」があった(p70,71,72)。 大乗仏教の唯識も、対象論理的な信念のある仏教をすべて、否定はせずに「世俗諦」として認めた。そういうものを必要とする人々も多かった。しかし、そのほかに、唯識は 「勝義諦」を主張した。そして、道元が尊敬した大乗仏教の祖、龍樹は、何かを定義するようなところに留まるなという無住処涅槃を主張した。定義すると、それを外れる苦悩の救済をしなくなるからである。苦悩するひとがいるのに、定義どおりに実現できて自分は幸福だと自己満足する仏教者の有様を批判したのである。時代や環境が変化していくので、人々の苦悩は限りがない。こういう重要な宗教の核心も現代の仏教学では教えられないようだ。
★大智度論の無住処涅槃 https://blog.canpan.info/jitou/archive/2427 ★禅定の喜びにとどまらず他者支援の行動を マアルーフ氏は、考察を続ける。似たことは、仏教にもある。日本の仏教と仏教の学問に失望した僧侶が東南アジアに向かった。それは、四諦八正道、12支縁起であり、六道輪廻からの解脱を目指すものとわかって、また戻ってくる。 ブームになった「マインドフルネス」も、深いものではなく、対象論理的な技術であって、深い宗教を求める人々、たとえば、がん患者のターミナルケアの場の患者には不十分だろう。多くの人の死をみとった医師は、患者が深い宗教を求めるというのだから。まもなく「今、ここ、自分」がなくなる人に、そういう手法を提案しても不十分だろう。そういうのは、禅の学問にすでにあったのに、臨終近い人のもとには行けなかった。おまけに、「マインドフルネス」は宗教ではないことを誇りとしている。しかし、死が近い人は求めるのは、宗教だという。 日本的マインドフルネス 日本には、自己の観察法として、宗教以前の観察から宗教レベルまでの深い禅があることを西田哲学、鈴木禅哲学が解明したので、それを参照していく。 仏教は観察の方法、哲学を 2千年にわたって深化してきた。だから、主な観察方法を理解しておいたほうがいい。 学校では、色々な仏教があったことを教えられない。 日本的マインドフルネスは、「死」の淵にいるクライアントに接近する。なるべく、広く深い人間の意識を理解しておきたい。まちがうと、クライアントに迷惑がかかる。 「マインドフルネス」は初期仏教の「正念」のごく一部だけを活用したものであることを理解する(講座第7回)。そして、大乗仏教の核心を理解する。道元の禅にも3つの核心があったことを学ぶ(第8回)。 そして、西田哲学の叡智的自己の行為的直観を学ぶ(第9回)。これは、すべての専門家がそうである。学者も宗教者も(自己のものに我利我執)。ここまで宗教レベルではない。マアルーフ氏が指摘したように、叡智的自己はエゴイズムを働く。こういうことは、宗教でなくても学ぶ必要がある。学者も宗教者も犯すと西田哲学は指摘する。多分、これを西田哲学の研究者はみな理解している。 そして、究極が、対象論理的信念ではないから超越的である。これをも学ぶ(第10回 )。ここは、西田哲学、鈴木禅哲学、フランクルもいう。このように、全貌を知ったうえで、自分の支援する人(クライアント)が必要とするものにあわせて活用していく。臨床の現場では様々なレベルの観察スキルが必要になる。 支援の適任者は、現場の人である。研究室で文献の研究をする人ではない。文献研究と現場の臨床とは、全く違うスキルを必要とする。現場の人のそばにいる人しか、支援できない。文献でいうことを現場で実践してほしい。 実際の現場臨床は難しい。だから、10回の講座を受講し終わって知識は十分学んだはずなのに、現場の臨床に乗り出せない人もいる。欧米の「マインドフルネス」もそうだろう。MBSR,MBCT,ACTを学んでも、うつ病の人々の臨床ができないひとが多いだろうと思う。臨床は難しい、臨床するひとがいないと、膨大な研究論文があっても、現場のクライアントは救済されない。仏教の経典、道元の語録があっても、3つの核心を現実に支援できるわけではないことと類似する。 また、自殺が増加傾向にある。自殺にならなくても、うつ病、不安症、PTSD、過食症などが治らないで苦しんでいるひとが多いだろう。 学生、檀家、知人、家族にさえも、うつ病などになって治らずに自殺されていくひとが近くにいるはずだ。しかし、仏教、「マインドフルネス」、心理療法の専門家は、自分のしていることで収入を得ることができて自分の生活に満足しているだろう。専門としてしている領域のすぐ近くに苦しむ人々があるのに、その専門領域のすぐ近くの専門家から 無視傍観される病がある。苦しむ人々を 見て見ぬふりをする社会。 日本のひとも、仏教でも仏教の学問でも、「マインドフルネス」の学問でも救済されていない。ようやく、大乗仏教には、3つの核心があったことがあきらかにされた。仏教、禅の学問的な解明はこれから始まる。これまでは解明されなかったのだから、簡単ではないと思う。多くの人が参加してくださることを期待する。 少子化、人口減少、寺院消滅のおそれ。檀家、学生、一般の人が必要とするものは何か。長老、先輩が学問的論争をさせない、若手の意見をきこうとしない集団には未来はないだろう。 30年後、何でも自由になって、大きく変わっていることを願う。 同じことを指摘している他の人を見ていきたい。 https://blog.canpan.info/jitou/archive/4650 ★【書籍紹介】 「見て見ぬふりをする社会」マーガレット・ヘファーナン https://blog.canpan.info/jitou/archive/1812 ★無視・傍観・軽視・放置・見放される病 (2009/9/15) https://blog.canpan.info/jitou/archive/3461 ★「見て見ぬふりをする社会」 (2016/10/24) 【書籍紹介】『アイデンティティが人を殺す』 アミン・マアルーフ、小野正嗣訳、筑摩書房 https://blog.canpan.info/jitou/archive/4630 (目次) |
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Posted by
MF総研/大田
at 18:15
| さまざまなマインドフルネス
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