(17)民主主義的に見える多数決で決めてはいけないことがある [2020年09月10日(Thu)]
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【書籍紹介】『アイデンティティが人を殺す』
アミン・マアルーフ、小野正嗣訳、筑摩書房 (17)民主主義的に見える多数決で決めてはいけないことがあるマアルーフ氏の指摘する問題は、外国のいくつかの国では、ひどい状況であることがわかるが、日本でも目立たない形で、人間の尊厳や自由がうばわれているところがある。 絶望したくなるが、それではいけない、歴史上少しずつ改善したきたという。 そろそろ、まとめに入りたい。民主主義は多数決だが、人間の尊厳や基本的自由、学問思想の自由を多数決で還元主義的なものを押しつけていいだろうか。学問的真理を多数決で決めていいのか。少数意見を大学から、教団から排除していいのか。一部分を抽出する。前後の文脈からは、違う意味かもしれない。 ある国では、多数派によって、言論の自由がうばわれて、熾烈なたたかいをしている。投獄、殺戮もあり多数派の暴力である。日本は、これほどひどい暴力は少ないが、抑圧、排除はある。 「割り当てと「コミュノタリズ」のシステム」の逸脱によって、世界のさまざまな地域で数多くの悲劇が引き起こされてきました。それゆえ、これと反対の態度、つまり差異など無視して、どんなことであれ、公正とされる多数決にしたがって判断するほうが間違いないように思えます。 一見、こうした立場は純粋に民主主義的な良識を反映しているように見えます。」(p177) しかし、禅の哲学や初期仏教や禅の正念も広く深く複雑なのだが、多数決で簡単なものに還元して決めて、これなら宗教ではなくて、「科学」だといっていいのだろうか。簡単なものh、理解されやすいので、多数派になる。しかし、鈴木大拙の「禅者の社会観」でいうことも、全部が科学でないとはいえない。理論闘争の自由をいうのは、宗教であるとは言えまい。 「数の論理は必ずしもつねに民主主義や自由や平等の同義語ではありません。ときにそれは、専制や隷従や差別の同義語となるのです。 種数はが抑圧されているときには、自由投票は必ずしも少数派を解放してくれるわけではありません。むしろいっそう抑圧が強まりかねません。総統にナイーブでもないかぎりーーあるいは、逆に相当にシニカルでもないかぎりーー権力を多数派にまかせれば、少数派の苦しみを軽減できるなどと信じることはできません。」(p177-178) 私は、禅の研究やマインドフルネスの研究をしているので、その領域のことをいうのだが、禅も正念も、自己の観察であり、元来広く深く複雑である。ジョン・カバット・ジンは、「痛みの緩和」のための方法として、MBSRをか開発したのだ。それが、すべてであるとはいっていない。「観察」は広く深く一生かけて探求して「全体性への扉」に過ぎない。道元の禅も膨大な文字があり、広く深い。坐禅は一部である。自内證、自己成長、利他の言葉もある。 多数決で決められたものが優勢であっても絶望してはいけないとマアルーフ氏はいう。 (編集中です) 【書籍紹介】『アイデンティティが人を殺す』 アミン・マアルーフ、小野正嗣訳、筑摩書房 https://blog.canpan.info/jitou/archive/4630 (目次) |
Posted by
MF総研/大田
at 22:08
| さまざまなマインドフルネス
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