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(31)後で覆るような解釈で学問的と主張するのか [2020年08月06日(Thu)]

(31)後で覆るような解釈で学問的と主張するのか

 前の記事の最後にこう記した。

 「なぜ、これまで多くの学者がそのような解釈を「学問」だとしてきたのだろうか? 」

 学問も、時代、国、環境に制約される。多分、仏教、禅の学問も日本と他国とでは違うだろう。そして、大乗仏教が指摘してきたのだが、人の意識作用は「心の闇」と言われる心理によって修飾される。 なかなか理解されにくいのだが、大乗仏教では煩悩、道元禅師が「己見我利我執」と言った闇の心理、西田哲学では、独断偏見という。他人には知られたくない恥かしい心理である。

 人間活動のあらゆる場面に現れるが、心理学的には、次の本がよく記述している。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3853
★多数決で「正しさをゴリ押しする人」(榎本博昭、角川新書)
☆認知的複雑性が乏しい各種の専門家の「ゴリ押し」
 =複雑性を理解できないでイライラして、深いものを否定

 仏教の学問や宗教実践の場合を考えてみよう。
 大乗仏教や道元禅師の核心にも、自内證(深い絶対無を体験で證明)、利他(苦悩する一般人の救済支援)、自己成長(自分のエゴイズムの観察を通して至誠の方向へ精進)があることを大竹晋氏が指摘した。以前から多くの学者が大乗仏教や禅の核心を理解しなかったことになるゆに見える。これまで、仏教の重要な部分を学生や一般人は教えられなかったことになる。
 昭和の初めから学問的な論争があり、自内證(悟り)ということを理解しないで否定する学者が多かった。利他も難しいが、それをしないですむ解釈もする。自分が煩悩の観察をしないから、それが重視されたと指摘しない。 そういう学問はおかしいと批判する禅僧や学者も昭和の時代には多くいた。それを批判するひともいた。これでは、一般の人は、どちらが学問的に真相をついているのかわからない。魅力を感じない仏教解釈に信頼性を低下させたであろう。

 仏教や禅は、膨大な文献があり、深いものもあり解釈がわかれる。深い論理や哲学を基礎にして自分の浅い(?)解釈を批判されると、理解できない場合不快になるだろう。イライラ、怒りの感情が起きるだろう。落ち着かせる行動に出るものもいるだろう。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3855
(2) ☆認知的複雑性が乏しい各種の専門家の「ゴリ押し」  =複雑性を理解できないでイライラ

 大竹晋氏が指摘するまでわからなかったのであれば、深い哲学のあることを理解できる人は少なかったわけである。3つの核心を理解せず、浅い解釈をするひとが多かった。そういうひとたちが多数派になると、どういうことになるか。榎本氏は次のことを指摘した。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3857
(3) ☆「正しさ」をゴリ押しする行動の背後にある心理とは?  =コンプレックス、欲求不満、攻撃

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3860
(4) ☆「正しさ」をゴリ押しする・時代の空気

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3861
(5) ☆正しさをゴリ押しする「危ない人にみられる特徴」(1)

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3863
(6) ☆正しさをゴリ押しする「危ない人にみられる特徴」(2)

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3864
(7) ☆「正義の人」が「危ない人」に変わる瞬間
 =アメリカから2つの新しい「仏教」が輸入された
  アメリカでは、仏教が現代の社会問題に活用されている。しかし、日本の仏教はそれが弱い。なぜなのか。

 榎本氏は、仏教や禅の学問について述べたわけではない。科学とか学問というところに広くみられるのだろう。

 大乗仏教や禅に関連することでは、次のような点が対立すれば不快になる学者がいるだろう。「学者」というが、オルテガがいったように、学問の舞台は大学だ。学問のかたよりも大学人がになう。

 仏教や禅にも、3つの核心があるとしよう。自内證、自己成長、利他。 自内證は、絶対無、悟りを体験するものであるが、これが最も重要だと言っているという学説を聞くと、不快になるひとがいる。
 自己成長、利他も同様であり、実践が伴う。エゴイズムを観察しなければならない、苦しむ人にあって臨床支援しなければならない。文字の研究と学生への講義ではない。こういうことができないと宗教者、学者として劣っていると思われるのは不快であると思う人がいる。「自分は専門家である。教育者である」。立場、面子、名誉にかわると思うのだろうか。 榎本氏の指摘がある。こういう厳しい批判をする人は少数派だ。少数派は組織内では尊重されない、著作のチャンスも少なくなる。少数派の意見解釈、深いものが一般に知られにくい。

 大乗仏教や道元禅師には、核心からそれているもの、文献的知識を厳しく批判した言葉もある。大乗仏教や道元の組織(当時の)では、知識や学識は重視されなかった。実践、体験、利他の現実行動を重視したものだ。当時の仏教を批判して、目標が衆生、人々の救済だったからだ。
 学者が、多数の経典を解釈できて講義できても、それは大乗仏教では重視されなかった。利他の現実行為をしないからである。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/560
★宮沢賢治の仏教は、力あるものの驕りを描く

 昭和の時代は、核心をとらえていない学問解釈がよしとされて多数派だったことになる。西田幾多郎も批判した。最近では、竹村牧男氏や大竹晋氏が指摘した。

 こうした浅いところで解釈して正しいと声の大きい人に強く主張されると、もっと深いものがあると気づいても、弱いひとは違う解釈を主張することは難しい。いじめ、排除をされる。どこでもこれがある。食べていくために家族もあり収入も必要だ、いじめられたり、排除されたくない、その組織では生きていくことがつらくなる。声の強いもの、力をもつものに従う。

大乗仏教では浅い解釈にとどまることを批判

 大乗仏教は、浅い解釈や、禅定にとどまることを批判した。そんなことをすると、自分のエゴイズムの心理を観察しないし、他者の救済(利他)をしないことを合理化するからである。
 唯識では、竹村牧男氏が指摘したように、学的解釈は世俗諦であり本物ではないとした。 体験がないから、体験的なものを教える(利他)ことができないからである。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3573
★世俗諦と勝義諦


 大乗仏教は、自己のエゴイズムの観察抑制(=自己成長)、利他(苦しむ一般人の臨床的な救済支援)を重視した。 こういうことは、権力者や専門家のエゴイズムに苦しめられる現代の人々が苦しんでいる状況であり、いよいよ重要性を増している。日本のマインドフルネスとしては、こういう「心の闇」を現在進行形で観察して、他者を苦しめず、自分を成長させていくことが重要であることが理解されるはずだ。宮沢賢治がいうように、みんなが幸福でありたい。そもそも、仏教という宗教の本質とは何であるのか。一般人から布施をいただいて生きていられる一般人の利他を考えず、坐禅する、文字の研究をすることなのだろうかという「宗教とは何なのか」という問題にかかわる。

 大乗仏教や道元禅師の言葉にしばしば見ることができるのは、闇の心理、エゴイズムの見方、考え方、欲望、行為に気づき抑制する方向の観察がある。自己洞察瞑想療法(SIMT)では、これをとりいれた。現代人にわかりやすいように、エゴイズムの心理を「本音」と名付けた。家庭、職場、学校、あらゆる場で他者を苦しめる、組織や社会を害するエゴイズムの心理を現在進行形で観察する。専門家が、近くの関係者の思想、学問の自由を奪い、人権を侵害し人格を否定することをする。 見る、考える、欲望を起こす、言葉を発する、行為する、あらゆる場面でうごめくエゴイズムを観察する。

 学校の義務教育でも、大学でも、社会教育でも、組織内の教育でも、こうした心の闇の観察、抑制ということが教育されない。教育は、社会で、ビジネス面で必要となる産業技術のみである。
 新型コロナウイルス感染症の流行によって、リモートワークが推進される。これからは、ITの技術の教育も加速される。いよいよ、心の教育をとりいれる余裕はなく、見捨てられていくのだろう。

 簡単には解決できない苦しみ、根本的な解決に向けてどうしたらいいのだろう。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/2171

https://blog.canpan.info/jitou/archive/2172

全く自我の都合のない立場からの学問

 深い心の探求に関係する人間哲学や仏教、禅の学問は、結局、全く自我の都合のない世界の立場からの解釈を学問的だろうと思っていないと、後世の学者から批判されることになるのではないかと思われる。
 どんな権力、権威にも組織にも迎合せず加担せず、利益を期待しない世界の立場に立つ解釈。

 「マインドフルネス」は新しい学問。始まったばかり。心の観察であるから、すでに似たことを研究してきた大乗仏教や禅、西田哲学を参考にしてほしい。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4583
【目次】 コロナと共に生きる生活の中でのマインドフルネス


 深いマインドフルネス、自己の観察は、フランクル哲学と西田哲学が類似する

Posted by MF総研/大田 at 20:56 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL