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(27)存在価値(2)自愛ーその1 [2020年08月01日(Sat)]
1日、東京は472人。「悪い」と評価します。「嫌だな」と思い感情が起きる。しかし、衝動的な反応、価値崩壊の行動はしません。(評価するマインドフルネス)
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4236
★第4世代の認知行動療法?

(27)存在価値(2)自愛ーその1

 次の記事で、当為価値ではなく、存在価値をみた。家族を愛し、家族から愛されることは、存在価値であった。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4603
★存在価値(1)愛し愛される

 家族から愛されているという実感があれば、このうえもなく幸福感があり、生きている喜びがある。だが、それがない場合があるようだ。自分を愛することができない。(現在、暴力や虐待がある場合は、別に論じる必要がある)

 昔、暴力、虐待があり、今はそれから解放されているが、愛される存在がまだいない。そういうつらい過去はないが、虚無感、孤独感を感じて幸福だとは思えない。抑うつ状態が長く継続している、生き甲斐がなく自己を愛することができない、など色々な事情があるだろう。自分を愛する気持ちがない。それゆえ幸福とは思えない。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4459 (幸福に関する哲学)

 そこから抜け出すにはどうしたらいいだろうか。自己とは何かという探求になる。 ヒントを西田哲学に求める。西田哲学のうち、「実践哲学序論」の論文があり、これにそって実践していくことになる。

★自覚=自己意識
 自己が意識されるが、それは思考作用の対象ではない。 「自己の意識」を「自覚」という。常識的な意味とは違う定義である。思考された自己についての概念ではない。アクセプタンスコミットメントセラピー(ACT)でも、3種の自己について観察するという。(西田哲学とは違うところがある)

 小学生の頃、中学生のころ、あの頃の、自己意識と同じだ。だから、思考されたものではない。

★思考で考えられた自己(概念としての自己)
 自覚と思考された自己と混同して、誤解されて悩む。
 「自分はつまらないこういうものだ」というのを自分だと思って、それを嫌悪するかもしれない。それは勘違いである。 西田哲学によれば、思考作用も思考された内容もともにそれを包む場所がある。場所に思考内容が映っている。それは真の自己ではない。
 作用と内容と場所は、この記事にある。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3441

 考えた内容を自己だとみなして嫌悪するのは勘違いである。勘違いであるが、嫌悪の思考を起こすので、不快な感情が起こり、抑うつをもたらして苦痛を感じる。いよいよ、心の場所(対象側、ノエマ)に不快、嫌悪が充満して、自愛がなくなる。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3439
★自覚

 自己を意識するのは、「自己内容を思考すること」ではない。自己は作用を起こす主体であって、自己を思考していない時にも働いている。思考に没頭している時には、思考の内容が心の場所を占領しているからである。
 一方、ゆっくり冷静に、考えている時、同時に、自己が意識される。思考内容は自己についてではない。そういう自己を意識するのが自覚である。これを嫌悪することはできない。嫌悪の対象は思考された対象(ノエマ)である。思考レベルの階層である。その時にも自覚がある。それは対象的ではない、ノエシスである。

 自覚は、ゆっくり行動している時にもある。歩いている時、自覚がある。自己について考えていない。すなわち、自覚は思考の内容ではない。
 日本のマインドフルネスは、こうした観察をする。

(続く)


https://blog.canpan.info/jitou/archive/4583
【目次】 コロナと共に生きる生活の中でのマインドフルネス


 深いマインドフルネス、自己の観察は、フランクル哲学と西田哲学が類似する

Posted by MF総研/大田 at 21:50 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL