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(14)禅の学問にも還元主義、画一主義、全体主義があったのか? [2020年07月11日(Sat)]
東京206人。 コロナの感染がなかなか収束しません。つらいです。オンラインでできないことがあります。近所の友人、マインドフルネスで親しくしている人たち、坐禅の同友。こんな時だから、自宅に来ていただいて歓談したいのにできません。別にすむ子どもや孫とも親しく会えません。仕事でも、オンラインではできない方々も多いでしょうね。映画、テレビドラマの対人接触がなければ撮影できないで、過去に撮影したものの再放送が多い。新作もオンラインではできないですね。
★しゃべる時は、離れた距離で、マスクもして!

(14)禅の学問にも還元主義、画一主義、全体主義があったのか?

 フランクルが、学問における還元主義、画一主義、全体主義を批判しました。(ガブリエルも「全体主義の克服」をいうようです。まもなく出版されるそうです。いつの時代も起きる専門家による3主義)

https://blog.canpan.info/jitou/archive/2672

 フランクルが学問における偏向を批判した。西田幾多郎は仏教、禅の学問を批判した。 どういうことか、それを推測されることが、昭和の学問的論争だった。

 禅とは何かについて、目的をもたずに坐禅するのだというのが正しい学問的解釈だという学者が多かった。 昭和の時代、大学では、この説だけが学生に教えられた。多分、魅力を感じる学生は多くはなかっただろう。学生も多分、社会に出たら人々のためになりたいという学生が多かっただろう。「目的のない坐禅」がなぜ尊いのか理解が困難であっただろう。
 その解釈ならば、大乗仏教から言えば,肝心の自内證、自己成長、利他がない。 大竹晋氏 の「大乗仏教非仏説を超えて」を参照してほしい。
 それなのに、禅とは、「目的のない坐禅だ」というふうにいうと「画一主義」ではないかと疑われる。自内證もない、自己成長もない、利他もしなくてよい。そういうひとも、生きていくためには、食べ物が必要であるが、世間の人からいただくお布施によるのか。世間には、利他をしない。どうも理解しにくい学問的解釈に見えた。
 やはり、そういう学問的解釈はおかしいという人もいた。大学にはいなくて、実践する僧侶に多かった。どちらも「学問」だとして激しい論争があった。大学での論争ではなくて、実践する人は、雑誌での投稿や著作の出版が多かった。それらの論文を集めた書籍がある。 次の記事に触れた「昭和の正信論争」があった。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3481

 禅も大乗仏教のように、坐禅も重視した(大乗仏教は禅定波羅蜜という)が、自内證、自己成長、利他があったのであって、 それなのに、「目的のない坐禅のみ」だというと、どうも還元主義、画一主義の匂いがする。
 人生をかけた昔の禅の人は浮かばれないのではないか。平安時代末期に、嵐にあって難破するかもしれない船に乗って、当時の中国に渡って、命がけで持ち帰ったものが「目的のない坐禅」だけを言っていたのか。大乗仏教の核心たる自内證、自己成長、利他を言っていないのか。
 もう、これも歴史になった。関係者もほとんど死亡されている。現代の学問的成果から、評価して欲しい。さもないと、禅は、社会問題の解決には何も貢献できないと思われたままになるだろう。

 上の記事で「このような状況では専門家の仮説に基づく真実説に無批判に同調するのではなく、現代人の問題解決のために貢献できるものを各人が考えていくしかないと思われる。」と述べたが、フランクルが他人のいいなりに無批判で従うのではなくて、自分の頭で考えて3主義を批判できる心を磨くことを教育の使命といったのではないないのだろうか。
    (注)おかしいとは感じても、学生は「おかしい」とは言いにくいのが本音だ。専門家であるはずの先生が断定的にいうのを、批判しにくい。批判するためには、文献を読む力がまだないだろうから。おかしいがそうなのか、つまらないものだと忘れるだけであろう。後の人生で、問題が起こっても、学生時代に教えられた仏教に期待することはないだろう。
    そういう日本仏教の学習の状況において、アメリカから「マインドフルネス」が押し寄せた。
 「マインドフルネス」は「科学」であり「宗教」ではないというが、マインドフルネスの「科学」はどうなのだろうか。マインドフルネスとは、「正念」だというが、非常に深い禅の体得者である秋月龍a氏は、悟り(自内證)を得た後にも「正念相続」という。自己を観察する「正念」にも種々ありそうである。深い「哲学」もサイエンス、科学、学問ではないのだろうか。
 ポージェスのポリヴェーガル理論で、評価の現場では無評価のマインドフルネスは使えないと批判が出た。再検討が必要なのかもしれない。大学教育は非常に重要である。仏教、禅、マインドフルネスなどの学問的な見解は、大学時代に学び、その後、一生影響する可能性がある。「つまらないな」と学生に思われて、その後、精神社会問題の解決に貢献できるかもしれないとはつゆ思いつかないのでは、貴重な「心の世界遺産」の喪失ではないのか。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4583
【目次】 コロナと共に生きる生活の中でのマインドフルネス


 深いマインドフルネス、自己の観察は、フランクル哲学と西田哲学が類似する

Posted by MF総研/大田 at 21:20 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL