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(7)本音を観察する良心 [2020年07月02日(Thu)]
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(7)本音を観察する良心

 マインドフルネスSIMTは、日本独自の観察、マインドフルネスである。日本は民主主義社会であるが、弱い人を苦しめる者がいる。 社会には、権力者、強い者、地位の高い者によるエゴイズム、パワハラ、セクハラ、アカハラ、虐待、暴力、差別、構成員の思想学問の自由の抑圧、などがあるが、誹謗中傷もそうであり、いろいろな悪意がある。独断、自己中心的心理である。SIMTでは、「本音」と呼び、 軽いものから本音の観察のトレーニングをする。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3606
本音の観察

 自己中心的な評価基準を本音というが、それに気づくのは「良心」である。良心が働かないと、見た瞬間、考える瞬間、行為する瞬間に、本音に影響された言葉を発し、行為をする。

 「良心の声に従うというのは単に理性的となることではなく純なる情意の要求に従うことでなければならない。ただ、考えられた自己を捨てることである、私欲を離れることである、無にして自己自身を限定するものとなることである、永遠の今の自己限定の内容は広義に於て良心の声として現れるのである。」 (「永遠の今の自己限定」)(旧全集6巻230頁)

「良心を有するものにして行為の善悪が問題となる如く、理論的良心を有するものにして与えられるものが問題となるのである。」(「永遠の今の自己限定」)(6巻226頁)

 良心とは、西田哲学によれば、無限からの光、道徳の根拠、絶対者の自己表現の呼声、良心的であることが即ち理性的、道徳的実践の方向である。

 「良心は無限からの光ということができるのである。道徳の根拠はここに求められなければならない。」【10:148頁】

 「我々の自己はその根底において、いつも二者択一の問題に撞着している。しかしかかる問題を自覚しおると否とに関わらず、我々の自己は絶対者の自己射影点として、いわゆる良心的に即ち理性的に作られたものから作るものへと唯一の世界を形成して行くのである。これが我々の道徳的実践の方向である。」『ポイエシスとプラクシス』【10巻172頁】

 見る、考える、行為する時に、無評価ではなくて、良心を働かせて、自分のエゴイズムの心理、本音を観察して抑制する。そういうトレーニングをするのが、10か月にわたるマインドフルネスSIMTの教育期間である。専門家になる人も、改善したい問題を持つ人も10か月。毎日、トレーニングする。良心がよく目覚めるまでには、かなりトレーニングが必要である。だから、パワハラ、虐待、依存なども簡単には改善しないのだ。
 10か月のあとは、自分で実際の現場、家庭、職場で実地に用いて洗練させていく。常時、一生、継続していく。意志作用、行為的直観の時に、良心を同時に働かせる。だから、マインドフルネスSIMTは、痛みがある人、集中力を高めたい人、精神疾患の人だけのものではない、すべてのひとのものである。がんや新型コロナウイルス感染症などになって死を意識する時も。無限からの呼び声、アインシュタインがいう愛、光ともいうものか。

 こういうわけだから、社会から苦しむ人をなくすには、日本的なマインドフルネスSIMTも必要であると理解していただけるであろうか。フランクル、西田幾多郎があきらかにした人間の闇と光。活かすことが我々の課題。日本中に、小さな独裁者と被害者がいないか、世界中に大きな影響を与える独裁者と被害者。

 学問における還元主義、画一主義、全体主義も 独断があり、ロゴセラピーのフランクルも教育で、良心を磨くことが必要であると言ったのだ。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4100
★オルテガ「大衆の反逆」

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3781
★カミュ「ペスト」
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https://blog.canpan.info/jitou/archive/4583
【目次】 コロナと共に生きる生活の中でのマインドフルネス


 深いマインドフルネス、自己の観察は、フランクル哲学と西田哲学が類似する
Posted by MF総研/大田 at 20:56 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL