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専門家はみなエゴイストになる=第9回 西田哲学の場所の論理と行為的直観 [2020年02月17日(Mon)]
今年度のマインドフルネス瞑想療法士🄬の認定講座は6月から開始です。受付中です。3月31日までに申し込みの人には割引があります。
http://mindful-therapy.sakura.ne.jp/kouza/2014kouza.htm

専門家はみなエゴイストになる
 第9回 西田哲学の場所の論理と行為的直観

 昨日は「マインドフルネス瞑想療法士」の認定講座の第9回でした。

主なテーマは叡智的自己、行為的直観でした。 マインドフルネス(正念、自己洞察、自己の観察)の哲学は歴史的に大きく変化しました。

 7回で、インド初期仏教の哲学を検討しました。六道輪廻からの解脱です。四諦八正道で深く観察実践すると解脱するわけです。東南アジアではこの実践が盛んです。

8回で、道元禅師の禅による自己洞察を学習しました。宗教団体の外では武士が支配階級となり庶民から年貢を徴収する時代、武士でない庶民は働いて年貢をおさめなければならない時代で、それを免除された僧が京都郊外の宝慶寺、越前永平寺で実践したもの。家族、職を捨てた人が中心であった頃成立したもの。現在では「目的を持たない」という学説が主流でした。しかし、深い哲学があるのを8回で見ましたが、大竹晋氏が指摘したように、見失われているようです。宗教や学問にも、自分の嫌いなものできないものは否定したり無視するかもしれませんが、自己都合を優先する見解が入り込むおそれがあります。自己の立場に立たない学問でないと真相が知らされず一般国民は浮かばれません。

自己探求の「正念」「マインドフルネス」を実践したい現代の人々とは時代、環境が大きく変化しました。家族の場、職場ではそのままでは従来の仏教は適用できないという西田哲学。現代の環境を足場にした「マインドフルネス」(見る、考え、行為にあるエゴイズム独断の評価の観察が重要)でなければなりません(西田哲学の「至誠」)。

(1)場所的論理と自己の階層

 意識作用には階層があります。それに応じて、自己の階層の深まりがあります。 マインドフルネス瞑想療法士🄬(MMT)になるための講座は意志的自己の意志作用の反応の仕方のトレーニング方法を習得することです。MMTは西田哲学のうちでも意志的自己の意志作用の実践化ですが、MMTはさらに深い叡智的自己の行為的直観、人格的自己の創造的直観も概略を学習しておきます。 希望者のみ、マインドフルネス精神療法研究会で行為的直観、創造的直観への哲学学習と実践体得を目指します。(MMTでなくても研究会の会員になれます。)

(2)叡智的自己および行為的直観

 このような内容です。(⇒テキスト目次)
http://mindful-therapy.sakura.ne.jp/simt-sousho/01-mokuji.pdf

 (これを、15日の「マインドフルネス精神療法研究会」でも、学習しました)
何らかの価値を明確にもつ人(現代のすべての職業を持つ人も専門家も、家庭の主婦も)は叡智的自己であり、行為的直観を用いるが、その哲学的な意味を知らない。
叡智的自己とは何か。よく哲学を知るものは、叡智的自己のエゴイズムを抑制して「至誠の叡智的自己」としていき、他の叡智的自己と共生できる。
しかし、「独断の叡智的自己」が多く、自分に執着し他を排除し共生しようとしない傾向がある。特にオルテガが指摘したのは、大学人です。自分の学説に必死になります。名誉、収入、生きがいを得られるからという叡智的自己、行為的直観の典型だからです。

★道徳的叡智的自己
 各種の組織で、部下、構成員の至誠の行動を排除し自由を束縛して、また、組織外の至誠の人の活動を無視、妨害しがちとなり、社会全体の問題解決・発展を妨害する傾向があります。 すべての専門家がこうなる傾向があることを西田哲学が論理的に明らかにしています。 エゴイズムなのに、その多くがそれを自覚していません。
 自己のエゴイズムに苦悩する専門家は少ないですが、自己の闇を自覚して苦悩する専門家がいます。これを道徳的叡智的自己といいます。この人が救われるためには自己の絶対に無なることを体験して人格的自己に回心するしかないといいます。多くの専門家はそこまで真剣になりません。大学人に独断が多いとオルテガが指摘しています。だから、社会の発展が遅れます。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3616 ★専門家のエゴイズム

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4413
★専門家のエゴイズム

(3)行為的直観

 叡智的自己は、意志作用ではなくて行為的直観を用いるが、その哲学的な説明を知らない。 西田哲学によれば、人は重層した集団(民族、国、宗教、組織、学派など)の立場で行為的直観で社会のために行動しているが、行為的直観は対象的に「観察」できる作用ではないから意識できない。通常の対象的意識のマインドフルネス(観察)ではわからない。意志作用を内奥に超えた作用である。
集団(種の論理)の立場で、集団(結局は構成員個人か組織)の利益のために「我こそは最善」と主張し争う(「種の生成発展の問題」)。 このことは人間の構造と我利我執が人間の本質であるから、それが起きるのが避けられない(西田哲学が「種」の論理)。
(我利我執が本質的=自分を基体化する
 ⇒ https://blog.canpan.info/jitou/archive/2218

 そのためもあって、必ずしもどれがよいものが市民には知られない。行為的直観のありさまは、従来の仏教、禅(目的のない坐禅か公案による深い実践の2極化で中間が教えられない)でも説明されていないようである。もちろん、欧米発のマインドフルネスでもここまでは観察していない。
やはり、現代人は知っておくべき、自己の有様であろう。専門家は、自己中心性、自己を基体化する心の闇を持つ。これが、社会の発展を遅らせる。多くの哲学者が指摘している。

 このような内容です。 (⇒テキスト目次)
http://mindful-therapy.sakura.ne.jp/simt-sousho/01-mokuji.pdf

(4)セッション9

本『うつ・不安障害を治すマインドフルネス』佼成出版社)の セッション9にあるマインドフルネスSIMTの自己と世界の見方は 行為的直観を浅い意志的自己の見方で説明したもの。このような見方で、うつ病や不安症/不安障害などの問題の改善への動機づけとなると思う。 もちろんマインドフルネスSIMTは、心の病気の人ばかりではなく、エゴイズムで行為してしまう専門家であるすべての人に実践してもらいたい。叡智的自己への入門となる。古来より行われてきた坐禅(深い)による自己の真相の入門となる。

 次回の最終回(10回)は、至誠の叡智的自己が現実の生活の中で、どのようなマインドフルネス実践をするように西田哲学ではいうか。後期西田哲学の実践論です。一言でいえば、「至誠」。 独断を捨てて見、独断を捨てて考え、独断を捨てて働く(行為する)である。 これを実践していると、昔から日本の禅でいっていた悟り(絶対無の体験=見性、身心脱落)ということが起こり、人格的自己の自覚となる。(「場所的論理と宗教的世界観」)
 日本には、昔からこの深い自己を探求してきた人々によって独特の文化を作ってきた。道元、世阿弥、千利休、松尾芭蕉などもそうであり、東山魁夷、河井寛次郎の芸術家もそうである。

http://mindful-therapy.sakura.ne.jp/kouza/ix-soudanin.htm 
★10回全部の目次
Posted by MF総研/大田 at 10:08 | 私たちの心理療法 | この記事のURL