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(9)超個(絶対無分節)、超個の個(分節2)をどう言うか [2020年02月05日(Wed)]

西洋哲学の瞑想・観想ー「マインドフルネス瞑想の哲学」(9)

(9)超個(絶対無分節)、超個の個(分節2)をどう言うか

 稲垣良典氏の著書から、「瞑想」「観想」「坐禅」の意義についてみている。私が本書をとりあげたのは、本書が「哲学」であるからで、キリスト教への誘いの宗教書ではないからである。 稲垣氏の神(絶対、超個)の探求は、伝統的キリスト教の神学とは違っている。日本的霊性と似ている。

 道元が「万法ともにわれにあらざる時節」が、日本の哲学者からは、絶対無(の場所)、超個、絶対的一者、無分節とされている。次の記事の最後の図のような構造である。超個は絶対に対象にならない、知識ではわからない。  稲垣氏の著書に、これに該当する部分がある。(私、大田は、マインドフルネスのMBSRを開始したジョン・カバット・ジンの「全体性」もこれに関連するであろうと思うが、マインドフルネスの研究者はほとんど触れない。)
     「この「存在(ある)」はわれわれの存在の最も内奥に現存する(われわれ自身がそれによって存在するのであるから)限りでは、われわれにとって最も身近で親密な実在であるが、その「何であるか」を認識することは(これまでわれわれの「神」探求が示そうと試みた如く)、人間の理性のみによっては不可能であるほどに困難なのである。」(稲垣、p247)

    「私自身、人間の自由は人間の自然本性に基づいて理解すべきだと考えており、人間はその理性的本性のゆえに、知性が「存在一般」ないし普遍的存在を固有的対象とするように、(知性的欲求能力たる)意志は「善一般」ないし普遍的善を固有的対象とする、と考える。 言いかえると、人間の意志は生活に必要・有用な善いものにせよ、欲求の対象となる快適な善いものにせよ、ある特殊な善いものへと必然的に傾くのではなく、自由にいずれかを選択的に欲求するが、このような自由選択が可能なのは、じつは意志が自然本性的により高次の普遍的善へと必然的に固着していることによるものである。
     なぜかと言えば、意志が根本的に普遍的善へと自然必然的に方向づけられているからこそもろもろの特殊的な善いものを自由に選択する「場」が開かれるからである。そのことによって特殊的な善いものはすべて相対化され、それらのいずれをも自由に選択することが可能となると考えられる。」(稲垣、p251-252)
 「われわれの存在の最も内奥に現存する」というから、内在的超越であり、日本的霊性と同様である。
 「自然本性的により高次の普遍的善」であるが、理性では把握できないもの、東洋では、自己を捨てる実践で「悟る」ものである。日本的霊性に類似する。
 「高次の普遍的善」という高次、普遍的、善という特徴は、東洋の仏教の「仏」、ほとけに類似する。大乗仏教で、すべてのひとが仏性を持つという。仏教者は、これにあこがれ信じているだろう。
 そして、「特殊的な善いものを自由に選択する「場」が開かれるということは、西田哲学でいう「絶対無の場所」で、人間が叡智的自己として、各人の価値を遂行していく場所となる。絶対無の場所において、各人が選択した価値(仕事、家族、芸術など)のために行為して「幸福」を感じるのである。叡智的自己の根底に開かれた場である。稲垣氏の哲学と類似している。
 ということで稲垣氏の神とは何かの哲学探求は、日本的霊性と似てくるのである。彼が西田哲学で説明しないのは、あくまでも「神」探求で進めていくからであろう。

 それでは、 キリスト教にも、「悟り」の体験者があるのだろうか。それを示唆する記述がある。

 このように、哲学者の思索の経過を理解するのはとても難しい。西田哲学も読み理解することがとても難しい。やはり、下記の記事で述べたように、哲学者の記述を理解し、一般のひとにやさしく伝えるひとが必要だ。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4489

 仏教ならば、僧侶がその役割を期待されていたはずである。しかし、日本的霊性のレベルの仏教をやさしく伝えてくれるひとはさがすことが難しい。
 マインドフルネスSIMTでは、西田哲学の宗教的レベルではないところの「意志的自己レベル」の西田哲学と、その実践、生活のしかたをやさしく伝えるのが「マインドフルネス瞑想療法士🄬」である。

仏教各派の寺で各宗のマインドフルネス的な観察実践生活体験を開発して一般人を寺で支援できないか

 仏教教団の僧も、難しく思われる開祖、空海、最澄、道元、親鸞などの教えをやさしく伝えるならば、これからの日本でも生き残る道があると思うがどうであろうか。開祖の深い教えが捨てられていては、一般人の心をひきつけない。素人が教える「マインドフルネス」はブームになっていることをみていただきたい。
 どの宗派にも、MBSR程度の極めてやさしい実践があるし、寺では実行されている。マインドフルネスMBSRに倣って、各宗派の「天台マインドフルネス」「真言マインドフルネス」「曹洞マインドフルネス」などと称して、寺での生活体験を一般人に開放していただくことができないだろうか。かなり多くのひとが寺に向かう可能性があると思う。

【参照】
滝沢の説は「絶対無と場所」秋月龍a著、青土社に詳しい。

(注)「マインドフルネスSIMT」は「自己洞察瞑想療法」、Self Insight Meditation Therapy。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3137
★道元禅師のマインドフルネス

https://blog.canpan.info/jitou/archive/2991
★叡智的自己(西田哲学)

https://blog.canpan.info/jitou/archive/2395
★専門家は叡智的自己、独断的、超越を認めないならば(西田哲学)。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/1955
★意志作用(西田哲学)


【目次】哲学、宗教、仏教学、心理学、医学、脳神経科学、精神療法、マインドフルネス、マインドフルネス学、留まることのない哲学に導かれるマインドフルネス実践
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4478

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4500
【瞑想とはどういう意義があるかー「マインドフルネス瞑想の哲学」】
Posted by MF総研/大田 at 21:10 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL