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(7)「キリスト教信仰」は日本的霊性と無縁ではない [2020年02月03日(Mon)]

西洋哲学の瞑想・観想ー「マインドフルネス瞑想の哲学」(7)

(7)「キリスト教信仰」は日本的霊性と無縁ではない

 稲垣良典氏の著書から、「瞑想」「観想」「坐禅」の意義についてみている。私が本書をとりあげたのは、本書が「哲学」であるからである。キリスト教への誘いの宗教書ではないからである。私は鈴木大拙や西田幾多郎に学んでいて、その実践、実用化を研究している。 稲垣氏も次のことを最後の最後「おわりに」の最後に述べている。
    10.「キリスト教信仰」は日本的霊性と無縁ではない
     本書を書いていた間中、つねに私の頭に去来していたのは、ここで述べているキリスト教的「神」理解と、日本的霊性・宗教性の形成に寄与し、またそれを表現した人物たちの「神」理解とはどのように関係づけられるか、という問題であった。この問題に立ち入ることはできないが、西田幾多郎、鈴木大拙、滝沢克己など日本的霊性について深く思索した思想家から学びえた限りでは、日本的霊性に固有の「神」理解は絶対的な超越性の強調にとどまるものではなく、絶対者の絶対的な自己否定としての無辺の大悲こそ絶対者の本質であるとするものであった。
     絶対者の絶対者であることの決定的な証しが無辺の大悲である、と語ったのは鈴木大拙であるが、西田幾多郎の「超越的内在」、滝沢克己の「インマヌエル(われらとともにいます神)の原事実」も同じことの表現であると言えよう。」(稲垣、p264)
 西田幾多郎は、キリスト教も聖書の言葉を禅や親鸞の浄土真宗の立場と同様に見ることができるとキリスト教の聖書を読んでいる。そのような解釈はキリスト教の「神学」の解釈とは違っていても。
 フランクルも、仏教やキリスト教に共通の神があり、「一人類教」なるものがあるはずだという。

 言語、思索による探求は、限界に達する。
     「「知恵の探求」として「神とは何か」と問う知的探索を進めてきたのであるが、その最終段階(・・・・)に到って「信仰」の必要性が明確に浮かびあがったのではないかと考える。」 (稲垣、p231)
 知的探求を深めていくと、ある段階で「信仰」が必要になるという。これは、禅でも同様である。自己の根底に絶対無のあることを信仰しない人は、只管打坐、公案などによって「絶対無を悟る」ことができない。真剣な探求をしないからである。

 おそらく、キリスト教の人も禅や浄土真宗のように、自我を捨てていく実践をすれば、 「受肉」の神秘や「人となった神」とかの不思議な言葉の新しい見方ができるのだろうという推測ができる。自我を捨てていく実践は、禅の指導ではわかりにくいかもしれないが、西田哲学では「至誠」の生活という。これが、日本のマインドフルネスの実践指針である。

【参照】
稲垣良典、2019 『神とは何か 〜 哲学としてのキリスト教』講談社現代新書

(注)「マインドフルネスSIMT」は「自己洞察瞑想療法」、Self Insight Meditation Therapy。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3137
★道元禅師のマインドフルネス

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★叡智的自己(西田哲学)

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★専門家は叡智的自己、独断的、超越を認めないならば(西田哲学)。

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★意志作用(西田哲学)


【目次】哲学、宗教、仏教学、心理学、医学、脳神経科学、精神療法、マインドフルネス、マインドフルネス学、留まることのない哲学に導かれるマインドフルネス実践
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4478

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4500
【瞑想とはどういう意義があるかー「マインドフルネス瞑想の哲学」】
Posted by MF総研/大田 at 21:35 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL