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臨済宗の「公案を用いて見性を重視する禅」を「宗教の課題」から評価すると [2020年01月18日(Sat)]

臨済宗の「公案を用いて見性を重視する禅」を「宗教の課題」から評価すると

 臨済宗には、初心からする坐禅と見性をめざす公案を用いる修行法がある。そして、公案の参究によって、見性するひとがいる。悟りである。これは、西田哲学でいう絶対無の体験である。

 悟りを得た禅哲学者でもありキリスト教者でもあった秋月龍aはこういう。

 「坐禅の仕方を教え坐禅に親しみ、禅や仏教の話を聞き禅の古典を読む会は、ぜひ門戸を広うし、敷居を低くして、一人でも多くの人々をさそって縁をつけることが望ましい。しかし入門を許して弟子として参禅指導することは、師家としてけっして軽々しくしてはならぬ。専門道場という生活の場から離れた在家の禅会などで、たやすく通参の修行者に公案かせぎをさせるような今日の在家禅会の見かけだけの隆盛はけっして好ましい現象ではない。伝統僧堂のよい点をとり入れて、新しい在家禅会としての生活訓練の場を工夫した在家禅の専門道場が現れてこねばならない。」(秋月龍a、『公案』ちくま文庫、p64)

 「ただくれぐれも警戒すべきは、古人の話頭を分別知解をもって思量卜度する「看話の邪禅」であり、同時にまた只管をただ枯坐死人禅となしおわる「黙照の邪禅」である。「看話」も「黙照」も禅としての到達点は一つである。ただ「公案」を用いる禅、さらに日本に渡っては白隠門下のいわゆる「公案体系」による禅だけが、生きた禅として今日に残った。弟子教育の上において公案禅のほうが勝れていたことの証明である、と、こうわれわれ臨済の禅者は信じるまでである。」(同、p29)

 「黙照」は、公案を用いないで坐禅だけ(無論、煩悩や偏見の探求がある)で悟りに導く禅である。盤珪が名高いが、昭和から現代までこの指導をする人々によって伝えられている。
 公案についての見解(けんげ)は、室内の秘事であるから、無理もない。大勢を公案で指導すると見解が漏れてしまうおそれがある。

 鈴木大拙、秋月龍a、井筒俊彦などの哲学者は、自己を超えたものを体験できることを認めている。道元、良寛、白隠、盤珪などがよく知られている。これは、絶対者である。量義治によれば、絶対者にもいくつかあるが、日本の禅は、絶対無即絶対有の意味を持つ絶対者である。

 臨済宗には、絶対者があることになるが、初心者や在家では修行することが難しいものである。だから、一部の人間にしか機会が開かれていない。ともかく、自内證、絶対を体験するという。それに基づく「真理」がある。
 ただし、一般人の救済の方法や理論が弱いということになる。秋月龍aもこれが課題だとしていた。一般人の人間関係や心の病気など内在の苦の救済は考えていない。まして、一般人には、超越(見性に導く)の救済はしない。ただし、がん患者など死の不安を持つ人に、超越的な安心の真理をやさしく説明して信じることをすすめる人はいるだろう。この点は曹洞宗の「目的のない坐禅」には真理がないのだから、これもできない。ただし、臨済宗もがん患者に公案による方法は難しいだろう。

 超越の禅について書いた書物は多い。鈴木大拙のものが多数ある(注1)。これを読んで信じるひとはいるだろう。しかし、超越にかかわる部分は理解することが難しいところがある。

 以上、宗教の課題を尺度として、現代の禅宗の多数派の禅について、私の「評価」を述べたが、みなさんはどう評価されるだろうか。現実の世界は「評価」の現場である。人々は、自分の問題の解決に役立ちそうでないと、仏教寺院には向かわないだろう。「マインドフルネス」を看板にかかげるところに向かう。
 なお、曹洞宗にも臨済宗にも、公案を用いず悟りに導く人もごく少数いる。それでも、数年から10年かかるであろう。


(1)『禅』鈴木大拙著、工藤澄子、ちくま文庫。これは、欧米人に向けて英語で書いたものを日本語に翻訳したもの。
【目次】哲学、宗教、仏教学、心理学、医学、脳神経科学、精神療法、マインドフルネス、マインドフルネス学、留まることのない哲学に導かれるマインドフルネス実践
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4478

Posted by MF総研/大田 at 10:00 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL