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坐禅さえすればいいという説 [2020年01月16日(Thu)]

坐禅さえすればいいという説

 現代人は、内在、超越の領域について様々な苦悩をかかえている。簡単なマインドフルネスでも、痛みや心の病気など内在の苦が救済できるのに、日本の仏教者はそれをできない。 がん患者さんが悩むのは、超越的な苦悩である。 多くの苦の解決のために、広く人間哲学や宗教哲学を参考にするのがいい。

秋月龍aが指摘したが、日本の仏教者は「思想的な怠惰」があるという。 彼は、キリスト教者でもあったから、キリスト教の神学も検討している。滝沢克己とも対話している。あとでみるが、キリスト教の研究者の、稲垣良典氏もキリスト教の哲学を考察している。 「神とは何か」という問いは「自己とは何か」という問いとセットになるという。
 マインドフルネスのなかでも、アクセプタンスコミットメントセラピー(ACT)では、 自己とは、文脈としての自己が真の自己だという。これは内在の自己だが。 また、リネハンの弁証法的行動療法では、「賢明な自己」が真の自己だという。これは、文脈としての自己よりも深いようである。いずれにしても、マインドフルネスも「自己とは何か」を瞑想で観察させる。 だから、マインドフルネスでも、この「自己とは何か」は重要なテーマである。
 キリスト教にも瞑想があるという。マインドフルネス的実践に参考になるかもしれない。

坐禅が悟りである

 まず、曹洞宗の「宗教性」をみる。 曹洞宗の多数派の説として、「坐禅が悟りである」「これ以外の悟りはない」と主張された。特に「目的のない坐禅」が主張された。利他も人間完成も言われない。大竹晋氏の著書で要点を見る。

「近現代においては、曹洞宗の宗学者たちが悟り体験を批判した。」(大竹晋、p257)

「近現代の曹洞宗においては、駒澤大学に奉職した宗学者、岡田宜法(一八八二〜一九六一)、衛藤即応(一八八八〜一九五八)、榑林晧堂(一八九三〜一九八八)、酒井得元(一九一二〜一九九六)らから、悟り体験批判が起こされるに至った。」(大竹晋、p257-258)

「興道の著書『坐禅の仕方と心得 附・行鉢の仕方』(一九四一)に次のようにある。

 悟ろうとも思わずに、唯坐るところに道は現れている、悟りは輝いているわけである。唯坐るところに悟りは裏付になつているのである。(沢木興道[1941:36])

  ここでは、ただ坐るところに「悟りは輝いている」という考え方が示されている。すなわち、坐禅によって悟りを求めるというのではなく、わざわざ求めなくても、坐禅した瞬間にもはや悟りはあるというのである。」(大竹晋、p259)

「興道によれば、これこそが曹洞宗の特色であり秘伝である。『坐禅の仕方と心得 附・行鉢の仕方』に次のようにある。

  泥棒でも一寸でも人のものを盗めば泥棒になる。又これと同様に、ちょっとでも仏さんのことをすればそれで仏さんと一所になるのである。ここに我が宗の特色があり秘伝があるのである。(沢木興道[1941:30-31])(大竹晋、p260)

【文献】
大竹晋,2019b『「悟り体験」を読む』新潮社

 量氏の宗教の条件と比べてみると。 どうなるか。

内在と超越.jpg

 まず、内在の問題は全く対象外である。在家の苦悩の支援の「利他」はない。 「坐禅」という宗教行為のみを重視する。「絶対者」はいない。がん患者さんの「死」の恐怖のような超越的苦悩の「救済」もない。目的を持たないのだから。 大乗仏教は大竹氏によれば「利他」「自内證」「人間完成」の3つの核心があったが、ここにはどれも見られない。「真理」はどうかというと、内部から批判があったという。

「通常、大乗仏教においては、真理(いわゆる真如)を実見することが悟りである。しかし、興道においては、坐禅した瞬間にもはや悟りはある。したがって、興道においては、実見されるべき真理がない。このことは、駒澤大学の曹洞宗宗学研究所に在籍中に興道に接した宗学者、佐橋法龍によって次のように指摘されている(文中の「和尚」は興道を指す)。

極端な言い方をすれば、和尚の坐禅には契当すべき理がない。(佐橋法龍[1968:106])」(大竹晋、p259)

 現代では多くの僧侶、在家が家庭、仕事をもっていて、坐禅していない時間も多い。法事、家族との団らん、医師やカウンセラーもいる、幼稚園や大学の教師の仕事もある。災害があればボランティア活動もしたい。その時間には、道元の仏法ではないと言われるのだから、僧侶もつらいだろう。

 しかし、本来、道元には、自内證、利他、人間完成の3つともあると思う。 大竹氏も、道元には身心脱落の言葉で体験重視もあったことを主張した人々の名もあげている。ただし、その人たちも、在家の内在の苦の支援(うつ病、パニック症、PTSD、家族の不和など)をできたかというと、わからない。自内證、悟りだけの重視では、在家も寺族の内在の苦が救済されない。
 これからの研究次第で、現代人のための内在、超越の苦悩解決の支援のための「マインドフルネス」を道元の言葉を根拠にして開発できると思う。

 臨済宗はどうであるか。

【参考】
https://blog.canpan.info/jitou/archive/2551 
★仏教は宗教。宗教ならば現実苦の解決のはず

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3140 
★聖徳太子が坐禅を批判

https://blog.canpan.info/jitou/archive/2426 
★在家の様々な苦悩の解決に役立ってもらう「目的」を持つ「瞑想」も社会のためには 価値が高い

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3686
★自分の見解に執着すると、その枠から外れる苦悩をかかえたひとの救済をしなくなる=自己満足を批判っした大乗仏教

https://blog.canpan.info/jitou/archive/2991
★叡智的自己は無限の喜び
【目次】哲学、宗教、仏教学、心理学、医学、脳神経科学、精神療法、マインドフルネス、マインドフルネス学、留まることのない哲学に導かれるマインドフルネス実践
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4478

Posted by MF総研/大田 at 20:48 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL