哲学には丁寧な検討を重ねていく学問的な誠実さがある
[2020年01月10日(Fri)]
哲学には丁寧な検討を重ねていく学問的な誠実さがある哲学者は簡単には断定しないところに「誠実さ」を感じます。哲学者、青山卓央氏は、こう言います。「ところで哲学とはーー世間に広まったイメージとは異なりーー気の利いた警句でひとを酔わせたり煙に巻いたりするものではなく、自説の正しさを疑いながら少しずつ考えをつないでいくものです。(たとえば、『プラトンとの哲学 対話篇を読む』(納富信留、岩波新書)第7章で述べられているように)。その意味で、「哲学」的と言われている著名な幸福論の多くは、実はそれほど哲学的ではありません。たとえばアランの『幸福論』は、人々を勇気づける良書ではあっても、哲学書であるとは言いがたいものです。 幸福についてわざわざ考え、それを文章にすることは、理論化と断片化のそれぞれの誘惑と闘うことです。頭で作った単一の幸福を絶対のものとして奉じるだけでは、あるいは、日常に散らばる幸福を個別のものとしてスケッチするだけでは、書き手は責任を果たしたと言えません。自分にはこれだけの理論化ができ、同時にこれだけの断片が残ったーーー、」(青山拓央p8) 「プロの研究者の目から見ると、「何」の問いに安易に答えを出さず、丁寧な検討を重ねていくことは学問的な誠実さの現れです。しかし、いま実際に幸福を渇望している人々は、そうした誠実さよりも、何らかの指針を欲しています。天下り式に与えられた指針であっても、ないよりはましだというわけです。こうして、「いかに」の問いへの回答は、人生論や宗教に求められていきます。」(青山拓央p9-10) 仏教には徹底的に考えぬかれたものでないものを「真理」のようにいう人もいるので、「仏教を単に現世において楽に生きるための道具へと堕落させてしまう危険性をはらんでいる」と大竹晋氏が指摘しました。しかし、哲学はそういうことをしないのです。 哲学者の文は他の哲学者から批判されます。誠実に考察せざるをえないのでしょう。 我々は、その誠実さを信用して読むことができます。 ところが仏教や禅の文字は他者から批判されることが少ないのに、見解、解釈は相当に違っています。どれを頼りにしたらいいのか判断が難しいです。かばいあっているものはよくみかけます。 こういう状況では、哲学者のものが信頼性が高くなるのは、自然でしょう。しかし、・・・。 哲学者は「何か」ということの考察が中心であり、「いかに」ということは、哲学者は、宗教者にまかせるのだといいます。苦しみ、問題を抱えた一般人は「いかにしたら苦しみから解放されるか」を知りたいのに、哲学ではなく、宗教や幸福論にたよるしかないのです。 哲学は相当、厳しい誠実さを感じますが、仏教や禅という「宗教」の学問的解釈には、いのちがけで信じることができないと思えるような印象を感じるものがあります。 うつ病になったり、犯罪の被害にあって死を意識している人の魂をゆさぶるような宗教的見解ではないのです。「いかにしたらこの苦しさから解放されるか」知りたい人は、宗教ではなくて、心理カウンセラーや精神科医のところに行くのでしょう。 「マインドフルネス」も「いかに」を扱っています。問題を抱えていては、幸福だと思えないので、「いかに」したらということで、宗教に魅力を感じないひとが「マインドフルネス」に殺到しています。ところが「マインドフルネス」は、哲学者のように、徹底的に考えていく哲学とは違っています。ここに問題があります。今後、真剣に検討していかねばなりません。「マインドフルネス」それ自体は、学問ではありません。 「マインドフルネス」は新しい波であり、「マインドフルネス」とは「何か」ということは、哲学ほどの厳密さはまだないように見えます。その状況で「いかに」が先行しているように見えます。 青山卓央,2016 『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』太田出版 【目次】哲学、宗教、仏教学、心理学、医学、脳神経科学、精神療法、マインドフルネス、マインドフルネス学、留まることのない哲学に導かれるマインドフルネス実践 https://blog.canpan.info/jitou/archive/4478 |
Posted by
MF総研/大田
at 18:46
| さまざまなマインドフルネス
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