今年もよろしくお願いいたします。
[2020年01月06日(Mon)]
今年もよろしくお願いいたします。
3月まで、マインドフルネス瞑想療法士🄬の認定講座を継続いたします。 意志的自己レベルのマインドフルネスSIMTで、うつ病、パニック症、PTSDなどを改善したい人の相談を受けます。SIMTで改善できるかどうかいっしょに考えて対策を提案します。継続のセッションが必要なひとには、マインドフルネス瞑想療法士🄬を紹介します。 毎月1回、マインドフルネス心の健康体操を継続します。会員制のものと誰でも参加できる場があります。 心の病気の予防や軽い心の病気のかたが参加できます。重い人は、マインドフルネス瞑想療法士🄬による個別セッションをご紹介します。 毎月1回、マインドフルネス精神療法研究会を開催します。意志的自己のマインドフルネスSIMTの確認、叡智的自己、人格的自己の哲学の学習、研究、実践をします。MBSRなどとは違う、西田哲学の実践化です。自己洞察瞑想も叡智的瞑想をします。絶対無を理解し信じられるひとは創造的瞑想を実践します。 5月にマインドフルネス精神療法研究発表大会を開催します。 5月に、日本唯一の「マインドフルネス」の雑誌「マインドフルネス精神療法」第6号を発行します。 6月から10か月かけて、マインドフルネス瞑想療法士🄬の認定講座を開催します。 宗教以前であるが叡智的自己レベルまで、そして宗教(超越)レベルまでをカバーするマインドフルネスの本を発売したいです。すなわち、自己を観察するすべての階層のマインドフルネスです。哲学者も、超越の幸福がなければならないと主張しています。 がんになった人、介護状態でもう仕事もままならない、うつが治らない、いつ死ぬかもわからない、・・・、死を意識する人の求めるマインドフルネスは、これかもしれませんし、これでも不足のはずです。超越のマインドフルネスは宗教ではなく、哲学ですから限界がありません。研究が続きます。 こんな叫び声がありそうですが、無視傍観され続けます。 「宗教で救われるのか! 集中力じゃない!、対人恐怖じゃない!、対人関係どころではない! どういきるかどころではない!、目的のない坐禅ではない! 公案じゃない!」 こういうものを全否定しているのではないのです。人によっては切羽詰まった人がいるのです。悩み苦しみ関心はみな違うので、個人個人に応じて臨機応変に対応してくれる心理カウンセラーのようなマインドフルネス支援者が必要なのです。 マインドフルネス、仏教の再検討最近、マインドフルネス、仏教、哲学で従来の学問的な見解に重要な疑義を呈する主張がありました。ジョン・カバット・ジンの提案したマインドフルネスは無評価での観察を定義としますが、「それは生存のために良い評価を得なくてはいけないという防衛状態とは両立しません」(ポージェス,245頁)と指摘されました。良い評価を必要とする現場は、家庭、すべての職場、病院や学校、インターネットの世界など、対人関係のあるほとんどすべての生活現場です。「無評価」をどこでも使うということはできません。 当然のことですが、日本の哲学者は人生の現場は評価される場所、価値を崩壊しないか評価選択していくといいます。 日本の仏教は大乗仏教の自内證、利他、自己成長の3つの核心を失っていると指摘されました(大竹晋.2019a)。利他をしないことを自己合理化する学説がありましたが、檀家信者の苦悩の解決をしないで、宗教と言えるのでしょうか。出家や仏教研究者の都合のよい解釈をしていて、大乗仏教の主張した自己成長の実践をしているといえるでしょうか。また、道元は悟りの体験を否定しているという学説がありましたが、やはり道元も大乗仏教のように自内證の体験を否定していないという学説がまた発表されました(大竹晋,2019b)。 「幸福」とは何かということも哲学の重要なテーマですが、これまでの「幸福論」や「幸福の哲学」について厳しい批判が提出されました。人が幸福になるということは、宗教やマインドフルネスと関係があります。なぜなら、解決したい悩みや問題があれば、幸福ではないし、宗教が救済する問題であるかもしれないからです。西田哲学も「独断」が自己他者組織を苦しめる行為になると指摘しているからです。そして、幸福の哲学を論じた哲学者が、言葉にできない超越的幸福があると主張したのです。マインドフルネスも、日本仏教も超越を避けてきました。そうなると、超越的なものでないと救済されない問題を抱えた人は、幸福になれないことになります。 もし、専門家が自己都合のためにこうした問題を回避したり、わからないからといって否定したりするのは、苦悩するひとを無視、傍観すること、自分の責任を軽くするような回避の心理が働き、結果的に救済を妨害することに加担していることになるかもしれません。自内證、利他や自己成長をしなくてもすむような見解は「仏教を単に現世において楽に生きるための道具へと堕落させてしまう危険性をはらんでいる」と大竹氏は指摘します(2019b,p272)。 家族、職場のひとの幸福のために、マインドフルネスや仏教は再検討をせまられています。 大竹晋,2019a『大乗非仏説を超えて』国書刊行会 大竹晋,2019b『「悟り体験」を読む』新潮社 ステファン・W・ポージェス,2018『ポリヴェーガル理論入門』春秋社 【目次】哲学、宗教、仏教学、心理学、医学、脳神経科学、精神療法、マインドフルネス、マインドフルネス学、留まることのない哲学に導かれるマインドフルネス実践 https://blog.canpan.info/jitou/archive/4478 https://blog.canpan.info/jitou/archive/4500 (記事4500から4529まで) ★瞑想とはどういう意義があるかー「マインドフルネス瞑想の哲学」 【目次】瞑想とは何か。それ自体には「目的」もなく「価値」もないのか 。 キリスト教の哲学者が考える「神」とは何かとの関連。 https://blog.canpan.info/jitou/archive/4498 ★真言宗の弘法大師空海による阿字観も 現代人のためのマインドフルネス瞑想にできるのでは =真言宗の専門家に期待 https://blog.canpan.info/jitou/archive/4494 ★臨済宗の「公案を用いて見性を重視する禅」を「宗教の課題」から評価すると https://blog.canpan.info/jitou/archive/4492 ★坐禅さえすればいいという説 https://blog.canpan.info/jitou/archive/4490 ★学者なら存在した宗教のあるがままを解明すべきであって、自分の宗教を捏造すべきでない https://blog.canpan.info/jitou/archive/4489 ★哲学者と現場をつなぐ臨床哲学 https://blog.canpan.info/jitou/archive/4488 ★哲学とは現実を直視する・普遍性への要求 https://blog.canpan.info/jitou/archive/4484 ★哲学には丁寧な検討を重ねていく学問的な誠実さがある https://blog.canpan.info/jitou/archive/4482 ★哲学とは、哲学のテーマ 哲学とはあくまでも自分固有の人生に対する実感に忠実に、しかもあたかもそこに普遍性が成り立ちうるかのように、精確な言語によるコミュニケーションを求め続ける営み https://blog.canpan.info/jitou/archive/4480 ★哲学と宗教 哲学は真理探求をし続ける。宗教は「我のこそは真理でああると主張する。 宗教は真理を信ずるが、哲学はそれを知ろうとする。真理を信ずるということは、その根拠を問わないということである。これに対して、哲学は、どこまでもその根拠を問うことである。つねに真理への途上にあるのであって、真理に到達してしまって、そこに安らぐということはない https://blog.canpan.info/jitou/archive/4478 ★仏教者の仏教解釈、是認してきた仏教学者、それを批判する仏教学者 仏教者は大乗仏教の核心を失っている。それを従来の仏教学者も是認してきた。 「仏教を単に現世において楽に生きるための道具へと堕落させてしまう危険性をはらんでいる」と大竹氏は指摘 https://blog.canpan.info/jitou/archive/4476 ★西田哲学 「哲学の諸問題をめぐって、さまざまな学派によってなされる議論、しかも真理の解明に向けてなされる「共同作業の場」において、西田の哲学や、京都学派の哲学が、独自の貢献をする学派として登場してきた、あるいは登場することが期待されているという意味で言われている。」 【目次】哲学、宗教、仏教学、心理学、医学、脳神経科学、精神療法、マインドフルネス、マインドフルネス学、留まることのない哲学に導かれるマインドフルネス実践 https://blog.canpan.info/jitou/archive/4478 |