「アイロニーを伴った生き方」 [2019年12月22日(Sun)]
書籍紹介
『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』
『幸福と人生の意味の哲学』
2著の幸福の哲学は深いことで類似しているように見えます。
共振、アイロニー、超越がキーワードでしょう。
似ているので、青山氏と山口氏の2つの著書を並行で見ます。
この2つの幸福の哲学書は、とても理解が難しいところがあります。実際、山口氏は、これが正しく理解されないで誤解して紹介していると厳しく批判しています。または、アイロニーのない幸福論が紹介されていることをまた批判しています。それでは、不幸な人々が幸福になれないと絶望させるおそれがあります。
定年、倒産、解雇、災害、事件、事故、重篤な病気や障害、愛する人の死など、厳しい人生の出来事があります。それでも幸福はあるのか、浅薄な哲学ではなく、真剣な哲学が必要です。
山口氏は、何人かの哲学者を厳しく批判しています。そういう時、哲学者でもない私が正しく紹介できるかどうかわかりません。真剣な幸福論、真剣な仏教、真剣なマインドフルネスに関心のある人はぜひ、原著にあたってください。
「アイロニーを伴った生き方」
「アイロニーを伴った生き方」を山口氏は次のように解釈しています。
「狂信者」とは違う生き方ですが、狂信者は「自分の価値観[・・・・]からまったく距離がとれず、そのため「自己の価値観の相対性から目を逸らし敢えて狂信状態に陥っている」と非難されうる。」(山口p133)
「「狂信者」と、良い意味で「強い信念」をもつひととの差異はある意味で紙一重なのですが、核心的な違いは《自分の究極の価値観を絶対的なものと見なしているか否か》にあるでしょう。そして、このように自分にとって「絶対的」と感じられる価値観の「相対性」を認めて生きることは、ときに「アイロニーを伴った生き方」と呼ばれます。」(山口p133)
この生き方は、「真剣であることの避けがたさ」とそれにもかかわらず「外側から一歩退いて眺めることができる」ことからなります。
「自分が真剣に打ち込んでいる(さらには真剣に打ち込まざるをえない)ことについて、一歩退いて《それはよくよく考えればどうでよいことだ》と気づきうる、と。」(p129)
たとえば、あることの仕事を自分の人生価値として必死に働きますが、種々の出来事
でできなくなる時が来ます。将来は予測不能です。災害、国際情勢、ビジネス環境の変化、病気、死、・・・。その価値が継続不能になる時がきます。であるのに、その価値を絶対視する人は、生きていく価値が失われてしまいます。そうではなくて、これまでの価値を相対的に眺めて、別の新しい価値を見つけるならば生きていけます。元の価値、別の価値を眺めるのですから、それらの価値べったりなく、それらから超越しています。
「どうでもよいこと」という言葉が少し違和感がありますが。「世界から見れば」でしょうか。今の自分にとっては必死のことですが、状況の変化、他人や世界からみればどうでもいいことだろうなという感じでしょうか。
状況の変化によって、いのちをかけて別の価値をさがすしかないです。今は「真剣に打ち込む、なくてはならないもの」ではあるが、もし失われても生きることに完全に絶望的にならないで新しい環境で生き抜いていく覚悟と信頼ではないかと思います。もし、従来の仕事が障害や重篤な病気などでできなくなっても、それでも、真剣に生きていく価値を見つけて生き抜いていくのです。そういうことができると信じて生きていくのです。すべての価値が自分だけでできるのではなくて、世界から制限されています。新しい価値への乗り換えは、血をはくほどの覚悟が要求されることがあります。
ブラック企業であるためにうつ病になり自殺の思いが起きるとか、
事故で足が失われたとか、がんで余命1年と告知されたとか、「アイロニーを伴った生き方」で、重い価値選択への切替が必要になるのが人生の常です。
山口氏は、極限状況の例を示しています。
「アイロニーを伴った生き方」をこのような簡単にまとめることは無理ですから、山口氏の著書をご覧ください。
超越以前の幸福と超越の幸福の必要さ
さて、「3つの共振」「アイロニーを伴った生き方」だけでは、おちこぼれるところがあります。外部に向かっての積極的な貢献が難しいと悩む人の極限状態です。こういう人は幸福になれなくていいのでしょうか。
文献
青山拓央(2016)『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』太田出版
山口尚(2019)『幸福と人生の意味の哲学』トランスビュー
【書籍紹介】
『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』
『幸福と人生の意味の哲学』
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4459
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Posted by
MF総研/大田
at 20:58
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さまざまなマインドフルネス
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