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超越的幸福 [2019年12月19日(Thu)]

書籍紹介
『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』
『幸福と人生の意味の哲学』

 2著の幸福の哲学は深いことで類似しているように見えます。 共振、アイロニー、超越がキーワードでしょう。 似ているので、青山氏と山口氏の2つの著書を並行で見ます。
 この2つの幸福の哲学書は、とても理解が難しいところがあります。 深いマインドフルネス、深い仏教や禅の哲学などを理解できないからと嫌悪する人にとってはやはり理解しにくいと思います。好き嫌いは自由ですが、理解できないからといって排除すると、このレベルでしか救済されない人びとも多いのに、その救済、支援を妨害することになりそうです。がんとなった人は、深い生き方の哲学を求める人が多いそうです。定年、倒産、解雇、災害、事件、事故、重篤な病気や障害、愛する人の死など、厳しい人生の出来事があります。深い幸福の哲学、深い自己洞察(マインドフルネス)が必要なのに、情報を遮断されているかもしれません。

超越的幸福

 前の記事でこう述べました。

 「青山氏、山口氏の「幸福の哲学」はSIMTに類似します。SIMTは、それが実現できるように、内面の意識現象を観察していくものですが。そして、ここまでは、対象的な「当為価値」の遂行による幸福です。このほかに、他の哲学者と違って、青山、山口、SIMTの3者には「超越的幸福」もあるようです。内容が全く同じかどうかはわからないのですが。

 次は、アイロニー、および、超越です。」

 山口氏の著書の第4章が「超越的幸福」について述べています。ここに、一部を紹介しました。
 https://blog.canpan.info/jitou/archive/4442

 一方、青山氏の著書では、第7章で超越を明確に記述しています。ただし、前の章の記述も「あるひとつの問題意識のもとで、それらの多くは選定されている。」といっています。青山氏の幸福論の背景には何か超越があるというのです。

 「あるひとつの問題意識のもとで、それらの多くは選定されている。その問題意識とは、この現実の世界ーーとりわけ現実の「今」−−を他の諸可能性と対比するとはどういうことか、というものだ。題2章の叙述においてそれはとくに明らかであるが、注意深く見ると他のどの章においても、この問題意識が維持されていることがわかる。」(青山p250-251)

 幸福は、「私」や現実世界を超えた領域に関与するというのです。

 「客観的幸福における「客観」には、この私だけでなく、この今、この現実世界を超えた領域に関与するといった意味合いがあり、・・・」(青山p255)

 そして、「神と遊戯」という題で、筒井康隆氏の小説「モナドの領域」を詳細に紹介しています。(p260-265)

 「筒井康隆氏の長篇小説『モナドの領域』(新潮社)は、ライプニッツ由来の可能世界論をその発想の基礎に置いており、世界の創造主たる神と虚構の創造主たる作家ーー筒井氏本人ーーの平行性を暗示することで、諸可能世界の住人と諸虚構の読者たるあなたの平行性をも示す作品となっている。具体的には、ある老教授の肉体を借りた「GOD」と呼ばれる神的存在が、その全知全能を周囲に少しずつ披瀝していくさまが、殺人事件や裁判のような道具立てを駆使して描かれている。」(青山p260-261)

 青山氏と山口氏の「超越」が幸福とどう関係するか。山口氏はこういっています。

 「何かしら語り尽せぬものが存在するのだという気づきは、私を生の虚しさあるいは「ニヒリズム」から救うからです。」(山口222)
 「幸福が人生の意味だ、と主張する」P222)

 「こうした境地において、私の人生と世界は<あるがままにあるもの>になり、内的な不調和や不和もなくなる。これがある意味で《私と世界が一致すること》であり、こうした仕方に伴う安心がここで言う「超越的幸福」です。」(山口220)

 「私は、手を変え品を変え《すべてはあるがままにある》といういわば「真如」の境地を語ろうとしているのですが、・・・・ちなみに膨大な量の著作を残した仏教思想家・鈴木大拙は晩年に「自分は多くを言い過ぎたようだ、そして真如は無限のかなたに去ってしまった:と述べたようですが、・・・」(山口222)

 もちろん、日本の哲学者、西田幾多郎は、自己を越えたものがあるといいます。
 https://blog.canpan.info/jitou/archive/4402
 ★自己を超えたもの

 https://blog.canpan.info/jitou/archive/1923
 ★超越が内在

 青山氏が「ライプニッツ」のモナドについて言及していますが、西田幾多郎も時々、ライプニッツのモナドロジーに触れます。

 「絶対矛盾的自己同一的世界においては、個物的多の一々が焦点として、それ自身に一つの世界の性質をもつのである。モナドロジーにおいてのように、一々のモナドが世界を表示するとともに、世界の自己表現の一立脚地となるのである。」(旧全集11巻378頁)

 すなわち、幸福といえば、客観的リストにあるような公共的なリストを実行していくことと言うのが多いが、それではなくて、自己の人生そのもののありかたを知ること(如実知見)信じて生きていく人生が、幸福であるという超越的幸福もあるのだというのだと思います。
 そういえば、仏教者のなかに、悟りを得て幸福だと表明している人が多数います(大竹晋氏『「悟り体験」を読む』新潮選書)。

 ただし、体験は必須ではなくて、信じて生きていくだけで幸福だというのです。 3者の哲学は似ています。自己や客観を超えたもののありかたは、3者は違っているかもしれませんが、公共的リストにない幸福もあるという点で類似します。こういう哲学を信じていきていくひとには、困難な出来事が起きる人生において、幸福をきりかえていける「アイロニスト」として生きるというのです。青山氏や山口氏の幸福の哲学に共通する点がそれです。

 人生の生きがい、人生の価値、自分で選択した一つのものに真剣になるのが幸福ですが、しかし、執着しすぎると絶対視してかえって自分や周囲を傷つける、自分の人生価値をも相対化して見ることができるのがいいと。執着絶対視すると、それから外れる領域の問題解決を無視傍観してしまいます。本人にとっても、価値を絶対視すると、予測できない人生の出来事で、それがなくなった時(定年退職、解雇、病気、事故、親の介護など)に、家庭崩壊、違法薬物、自殺などが起こり得るでしょう。そこで、生涯、幸福であるためには、超越の幸福の哲学とアイロニーの幸福の哲学があるわけです。真剣でない哲学者はこれを誤解して伝えるのです。アイロニーの生き方とはどういうのでしょうか。次で見ます。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4243
★これは、つらい問題、出来事のほんの一部です

文献
青山拓央(2016)『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』太田出版
山口尚(2019)『幸福と人生の意味の哲学』トランスビュー


【書籍紹介】
『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』
『幸福と人生の意味の哲学』

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4459


Posted by MF総研/大田 at 10:08 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL