(14)仏教、禅、マインドフルネスも、幸福論の哲学も再検討を [2019年11月30日(Sat)]
(14)仏教、禅、マインドフルネスも、幸福論の哲学も再検討をもう一度学問にある専門家多数派のエゴイズムを考えるいかに生きるかとか幸福な人生とか、というようなテーマの本がしばしば宣伝されている。不確実な時代において、市民は不安になっている。ある人物の宗教思想によるならば、下手をすると、エゴイズムの者の餌食になったり、カルトの被害にあう。幸福とか人生の意味について、市民はまじめな見方を求めている。哲学は貢献できないのか、 真剣でない幸福論の哲学者を批判参照山口尚「幸福と人生の意味の哲学」トランスビュー 本書をみると、哲学者の幸福論を厳しく批判しており(私は山口氏の批判に納得できる)、 幸福とか人生の意味とかの哲学にも、種々の考え方があって、 市民が安心して読める幸福論の哲学書がないように思える。
市民にとって、幸福論の哲学は仏教、禅、マインドフルネスとも関係があるはずである。仏教、禅、マインドフルネスが、幸福と無関係というならば、存在理由がないだろう。日本の禅は何も求めないのだという教えに傾むいてきたが、それならば、大乗仏教でいう「慈悲」とは言えないだろう。そう主張する自分は社会から数々の恩を受けて坐禅ができて生きているのに、何も求めない坐禅だという。種々の心理的な社会問題のなかにあえいでいる市民にも、寺院消滅が見込まれる寺院の僧侶にも、もはや、そういう坐禅を真剣にする余裕はないだろう。寺院が消滅に向かうのはやむをえないと思うだろう。環境が時代によって変化している。 山口氏の哲学は、大田が解釈している後期西田哲学の実践としての自己洞 察瞑想療法(SIMT)に通じるところがある。山口氏の「超越的幸福論」は SIMT と類似するところがある。 「私たちが生き、行為し、語るとき、それを「包み込む」場のようなものが在る。 こうした私たちを超えた何かこそが、本書が「超越」と呼ぶところのものです。」(p200) 「幸福は<眼前に現れうるもの>を超えた次元につねにすでに存在している、と指摘されるでしょう。」(p206) 「ウィトゲンシュタインは、<語りえぬもの>を「神秘」と呼び、それを大切にする姿勢を重視しました。」(p217) 西田哲学の絶対無、井筒俊彦の「無分節」の立場からみれば理解できる。そして、これを考慮しない幸福論の不備を批判するのも理解できる。 激動する環境、世界中にみられる対立抗争、テロリズムにさらされている時代において、幸福がおびやかされていて、真剣な幸福への方向を市民が知りたがっている。仏教の学問も新説が提示された。マインドフルネスも、限界が提示された。科学は絶対的な真実でありそうもない。押し付けは困る。自分の選択したものを多数派となって、おしつけてはいけない。後で、間違いだったということが起きる。 家族が幸福とか、選択した仕事が幸福と多くの哲学者がいうが、病気や災害で家族を亡くした人には 幸福はないのか、災害、事故、親の介護、がんによって、仕事を無くした人、余命いばくもな い病床の人にはもう幸福はないのか。それに応えない哲学はそんなに弱いのか。真剣な問 題 と関連する。 山口氏は「あとがき」にこういう。 「私が最も嫌悪するのは、生の安全で怠惰な継続が保証された環境において何にも 真剣に向き合わずヘラヘラと笑い、そうした安全地帯から、何かに必死で向き合うひ とを「お気の毒に」と嘲笑するひとびとである(とはいえ私は、そうした生き方をし ていることそれ自体が彼らあるいは彼女らに対する最大の「罰」だ、とも考えている のだが)。」(p267) 専門家や学者のエゴイズムについて考えているのだが、こういう哲学もいい加減なものであれば、市民は信用していいかどうかわからなくなる。真摯な哲学を参照して、深く広い日本のマインドフルネスを研究開発していき たい。なぜならば、マインドフルネス=自己の観察ということは、自己や他者を不幸にしない方向への観察実践でもあるはずだから。 仏教、禅、マインドフルネスも再検討をこう見てくると、仏教もマインドフルネスも現在主張されている多数派の学説が絶対の真実であるわけではない。押し付けないでもらいたい。多数派説の考えでは、枠からはずれた人々の苦悩や問題を無視、傍観する傾向を合理化して、マイノリティ、しいたげられた人の不幸を無視、傍観し続けるおそれがある。特に、気になるのは、「マインドフルネス」の多数派の「無評価」という態度である。自分のエゴイズムの言葉や行為、社会にある多種の他者の苦悩は、「無評価」ではわからないからだ。ようやく、ポージェスのポリヴェーガル理論によって、アメリカではマインドフルネスの限界が指摘された。対人場面でないところでの応用は今後も続けられるべきであるが、対人場面での観察、自己洞察、他者洞察、社会の苦悩洞察、生き抜いていく哲学とその実践化の研究を専門家、学者が研究し、少数派の革新的な説を提示してほしい。そういう少数派の学説が社会を変革していく。 https://blog.canpan.info/jitou/archive/4417 (3) その内部だけでしか通用しない理論枠に縛られ ☆異邦人、少数派が社会を変革する起爆剤 ☆全体主義に陥らないように、社会の暴走を防ぐ。 連続記事目次 https://blog.canpan.info/jitou/archive/4413 もう一度学問にある専門家多数派のエゴイズムを考える (参照)「答えのない世界を生きる」小坂井敏晶、祥伝社 【参考】 https://blog.canpan.info/jitou/archive/3962 ☆西田幾多郎、大竹晋氏による仏教批判 https://blog.canpan.info/jitou/archive/3270 ☆物となって見、物となって考え、物となって働く https://blog.canpan.info/jitou/archive/3359 ☆至誠の実践 https://blog.canpan.info/jitou/archive/3329 ☆「後期西田哲学の実践論」の論文 https://blog.canpan.info/jitou/archive/3270 ★エゴイズムのない深い自己、堕落の観照とは https://blog.canpan.info/jitou/archive/3875 ★忖度社会ニッポン https://blog.canpan.info/jitou/archive/4100 ★オルテガ「大衆の反逆」 https://blog.canpan.info/jitou/archive/4419 ★少数説を知ることができる場を作る 【参照】 綿野恵太『「差別はいけないとみんないうけれど』平凡社 北村英哉・唐沢穣『偏見や差別はなぜ起こる?』ちとせプレス 鷲田清一『濃霧の中の方向感覚』晶文社 山口尚『幸福と人生の意味の哲学』トランスビュー 連続記事目次 https://blog.canpan.info/jitou/archive/4413 もう一度学問にある専門家多数派のエゴイズムを考える (参照)「答えのない世界を生きる」小坂井敏晶、祥伝社 https://blog.canpan.info/jitou/archive/3288 ★日本には深い自己観察の哲学と実践がある。 https://blog.canpan.info/jitou/archive/3789 ★仏教者の「思想的な怠惰」 |