(11)自分の意見を断固として強制しようとする専門家 [2019年11月24日(Sun)]
【連続記事】もう一度学問にある専門家多数派のエゴイズムを考える
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4413 (11)自分の意見を断固として強制しようとする専門家もう一度学問にある専門家多数派のエゴイズムを考えるオルテガは大学の科学者や上級官僚の横暴なふるまいを「大衆の反逆」として批判しました。 https://blog.canpan.info/jitou/archive/4100 ★オルテガ「大衆の反逆」 哲学者の鷲田清一氏の著書(下記)でみます。権力をかさにきて、少数派(マイノリティ)を差別、排除するのを「野蛮」だと言います。 「オルテガが「大衆の反逆」ということを口にしたのは「自分の思想の限られたレパートリーの中に決定的に住みついてしまう」性向、もっといえば。「理由を示して相手を説得することも、自分の主張を正当化することも望まず、ただ自分の意見を断固として強制しようとする」、そういう性向を、ひとが羞じるどころか逆に当然の権利として主張するような大きな傾向を、 1930年の時点でヨーロッパ社会にひしひしと感じたからです。 《対話》を回避し、むしろ他の解釈を斥けたいーー一掃=粛清したいーーという欲望をそこに見てとったからこそ、それと対抗的に、「われわれの隣人が訴えてゆける規則がないところに文化はない」と言い切ったのでした。「規則の不在、酵素の可能性の欠如」こそ「野蛮」のしるしなのだ。と。」(鷲田p29) 「今日では専門科学者やテクノクラート、さらには上級官僚こそこうした「大衆」の典型になりはてていると、オルテガは言ったのです。」(鷲田p29) これが、今でも起きています。だから、そういうところでは、大衆でないメンバーや学生はあわれです。社会の発展も阻害します。 こういう専門家を榎本博昭氏は、「認知的複雑性が乏しい専門家のゴリ押し」といいました。 https://blog.canpan.info/jitou/archive/3855 このことを鷲田氏は次のように言っています。 「その解釈を、より正確なもの、より立体的なものにしようとすれば、じぶんとは異なる別の 位置からの証言というものが重要になります。そしてその証言はしばしば、じぶんがそれまで手にしてきた解釈に大きな修正をうながしもします。けれどもそれは、じぶんの前に広がる世界の眺望が揺らぐことでもあるので、つねに大きな不安をともないます。そういう意味で、「自分の思想の限られたレパートリーの中に決定的に住みついてしまう」(オルテガ)そのような性向はなかなかに根深いもので、そうした思い込みから放たれるには大きな努力を要します。」 (鷲田p28) 結局、自分の利益を優先して、新しい解釈を排除するわけです。だから、伝統説がずっと持続する傾向があります。こういう社会の発展を阻害するエゴイズムを、大乗仏教は「煩悩」、道元は「己見我利我執」といい、西田哲学は「至誠」でない、マインドフルネスSIMTでは「本音」といって、抑制すべきとします。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3270 ☆物となって見、物となって考え、物となって働く https://blog.canpan.info/jitou/archive/3359 ☆至誠の実践 https://blog.canpan.info/jitou/archive/3329 ☆「後期西田哲学の実践論」の論文 【参考】
★エゴイズムのない深い自己、堕落の観照とは https://blog.canpan.info/jitou/archive/3875 ★忖度社会ニッポン https://blog.canpan.info/jitou/archive/4100 ★オルテガ「大衆の反逆」 https://blog.canpan.info/jitou/archive/4419 ★少数説を知ることができる場を作る 【参照】 綿野恵太『「差別はいけないとみんないうけれど』平凡社 北村英哉・唐沢穣『偏見や差別はなぜ起こる?』ちとせプレス 鷲田清一『濃霧の中の方向感覚』晶文社 連続記事目次 https://blog.canpan.info/jitou/archive/4413 もう一度学問にある専門家多数派のエゴイズムを考える (参照)「答えのない世界を生きる」小坂井敏晶、祥伝社 https://blog.canpan.info/jitou/archive/3288 ★日本には深い自己観察の哲学と実践がある。 https://blog.canpan.info/jitou/archive/3789 ★仏教者の「思想的な怠惰」 |