CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る
«(9)内集団びいき | Main | (11)自分の意見を断固として強制しようとする専門家»
(10)屈辱感から敵視=学者や宗教者さえも [2019年11月23日(Sat)]

(10)屈辱感から敵視=学者や宗教者さえも

もう一度学問にある専門家多数派のエゴイズムを考える


 時代や環境の変化につれて多数説、従来のものをのりこえるような革新的ですぐれたものが現れた時に、学者でも宗教者でも、従来の自分のものに固執して多数派を頼んで、新説を無視、排除するのでしょうか。
   内集団をひいきにするのは、「自分の評判がよくなるかもしれないし、誰かからの見返りがあるかもしれない」からです。(北村・唐沢、p17)
 こう書きましたが、詳しく記述しています。

 「自分のしんずるもの、頼るものの一つが権威や現状の社会のあり方そのもの(現成肯定)であった場合には、これを批判する者が敵に見えてしまう。 自分が大切にするものの価値を貶める言説に出会うと屈辱感を感じる。 ここにも現状肯定派と改革派との根深い対立の芽がある。

本来、同じ社会で生きる者は、互いに知恵を出し合って、みんながより生きやすく、住みやすくしていく改善策があるのならば、改善とその方法を議論し、共有していくことが理想的であろう。

しかし、現状を肯定するあまり、そうした「改善」についてもみずからの存在基盤を脅かす批判をなすものとして、過剰に警戒し、敵意を抱くといった反応が呼び覚まされることがあるのだ。」(北村・唐沢、p62)


 結局、現状肯定、従来説、伝統説を主張するものの我利が動機だというのです。 これは、私が知っている仏教学やマインドフルネス学ではない領域のことでしょう。 それなのに、仏教学やマインドフルネス学の領域にも、似たことが起きていましたが、動機は上記と同じなのでしょうか。もう、環境が変化しているので、多数派、少数派の意見を交換していただきたいと思います。それが、一般市民への貢献になるはずです。本当に、仏教に期待されず、寺院の消滅が現実になるでしょう。それとも、動機は、上記とは違うのでしょうか。自己の心理、精神を観察するのが、仏教やマインドフルネスのはずです。真剣に検討していただきたいと思います。いい加減なことで損するのは、一般市民です。解決方法が開発されずに。そこに、学問の自由がありますか。

 次のようなことが起きています。大学の研究者や宗教者の間にあります。

(1)従来説、多数説
 日本の仏教こそは小乗の仏教を批判した大乗仏教で、釈尊の精神をひきついでいる   

 ☆新説、少数説
 日本仏教は、大乗仏教の3つの核心を失っている。自内證、利他(他者の救済)、自己成長。(大竹晋氏)

(2)従来説、多数説
 道元は、ただ坐禅すればよいといった。   

 ☆少数説
 それでは、他者の救済がなく、広い立場でない。坐禅一つだけではないはず。道元も自内證(身心脱落、悟り)、利他、自己成長を主張した。
  (哲学者には、この説の人がいるが少数派(道元を研究する哲学者の数は少ない)。私もこの少数派。この説を文献で論証できるが少数派。多数派からは尊重されない。)

(3)従来説、多数説
 「マインドフルネス」とは、無評価の観察である。   

 ☆新説、少数説
  (1)ポージェスのポリヴェーガル理論で、批判された。評価の現場では使えない。
  (2)初期仏教、大乗仏教、西田哲学ともに、観察する範囲が広く、無評価ではない。気づきにくい煩悩、エゴイズムがないかどうか評価観察していた。最近の差別、偏見の心理学研究でも意図しないでそれを起こしているという。自己にある無意図的な偏見、差別意識を表面化しなければいけないだろう。いじめ事件の調査にある加害側へのひいき、神戸の教師によるいじめにも、評価判断すべき心理がある。

(4)従来説、多数説
 「西田哲学」によるマインドフルネスは難しくて一般向けでないから、この団体では採用できない、無用である。四諦八正道による実践を採用すべきだ。   

 ☆新説、少数説
  難しくとも、これでないと解決支援できない問題もある。両方を推進すべきだ。しかし、四諦八正道は、古代インドの輪廻思想の実現を目的にしているので、受益対象が限定的である。よく、議論すべきである。

(5)従来説、多数説
 ACTの「文脈としての自己」が真の自己である。   

 ☆新説、少数説
  日本の禅や西田哲学によれば、それは真の自己ではない。また、別の視点であるが、概念としての自己、プロセスとしての自己は、真の自己ではないと、ちゃんと評価判断している。ACTは「無評価」だけでもないようだ。

 以上のような小数説が、これからの日本で、貢献できるかもしれません。しかし、(北村・唐沢、p62)の見方と同じであれば、多数決の民主主義で、少数説は消えていくかもしれません。一般市民は、大学の多数派説を知らされるのみです。
 小坂井氏がいうように、少数派説は現状の批判であり社会を変革していく可能性のある芽。研究に参画してほしいものです。なすべきことがあります。

【参考】

【参照】
 綿野恵太『「差別はいけないとみんないうけれど』平凡社
 北村英哉・唐沢穣『偏見や差別はなぜ起こる?』ちとせプレス

(編集中です)
連続記事目次
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4413
もう一度学問にある専門家多数派のエゴイズムを考える
(参照)「答えのない世界を生きる」小坂井敏晶、祥伝社


https://blog.canpan.info/jitou/archive/3288
★日本には深い自己観察の哲学と実践がある。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3789
★仏教者の「思想的な怠惰」
Posted by MF総研/大田 at 20:04 | エゴイズム | この記事のURL