(7)世阿弥「離見の見」その2 [2019年11月19日(Tue)]
(7)世阿弥「離見の見」その2もう一度学問にある専門家多数派のエゴイズムを考える(7)世阿弥「離見の見」その2 題名にひかれて1か月前に購入していた本「濃霧の中の方向感覚」(鷲田清一、晶文社)を講座の翌朝、何気なく、手にとって見たところが偶然に世阿弥のことだった。
いったん身を後ろに退くことで得られるこのような広い視野のなかで、じぶんがいま取り組んでいる作業の位置を見定めるというのは、どこか、世阿弥の「離見の見」、つまり舞うじぶんを後ろから見つめるまなざしをもつことに通じるものがある。 民族学者のレヴィ=ストロースは、世阿弥のこの「離見の見」を[・・外国語の文、省略](離れた視点、遥かなる視線)と訳し、これを科学的営為がそなえるべき特性--- むしろ、徳性というべきか---としたのだった。」p256) 日曜日の講座で、「マインドフルネスSIMTを悪用しないように」、大乗仏教の龍樹の真摯な態度を学習しました。 いまも、「マインドフルネス」を濫用したものが教えられています。学者や大学で講義するものは、自分の行いを離れた視点から「マインドフルネス」「観察」すべきなのでしょう。大学は大学人の行いを監視監督し自浄作用をはたして、自ら悪質なものが学内で行われていないか自己反省すべきなのです。自らそれができない大学は、外部から「アカデミックハラスメント」「パワーハラスメント」として訴えられます。自浄作用もないのかと見苦しいことを世間に公けにさらされます。綿野恵太氏がこういうことを指摘したのを見ます。今は、各種の手段があります。 マインドフルネスにも、低級なものがあります。本で読めるものが多いせいか、大学の講座は受ける価値がないという批評がインターネット上にあります。講師自らが自己を観察して、評価しなければならないのです。自分の講義の言葉、行為を観察して、我利独断でないか評価、受講者の時間と費用をむだにし不快にさせていないか評価すべきです。無評価ではいけないのです。鷲田氏、小坂井氏、オルテガ、フランクルなどがいうこともそういうことなのでしょう。 連続記事目次 https://blog.canpan.info/jitou/archive/4413 もう一度学問にある専門家多数派のエゴイズムを考える (参照)「答えのない世界を生きる」小坂井敏晶、祥伝社 https://blog.canpan.info/jitou/archive/3288 ★日本には深い自己観察の哲学と実践がある。 https://blog.canpan.info/jitou/archive/3789 ★仏教者の「思想的な怠惰」 |
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