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(4)専門家多数派のエゴイズムを考える [2019年11月12日(Tue)]
★2020年度のマインドフルネス瞑想療法士🄬の認定講座

ポージェスのポリヴェーガル理論によりマインドフルネスは限界が指摘されましたが!!
⇒無評価のマインドフルネスの限界
日本のマインドフルネスSIMT(自己洞察瞑想療法)は織り込み済みです。
SIMTには「評価する・される現場」での行動時自己洞察があります。
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専門家多数派のエゴイズムを考える
(4)研究者はどうあるべきか

 大学の文科系学問の研究者はどうあるべきか。学生に影響を与え、人生を左右するのであるから、謙虚、誠実であれ。小坂井氏の著書から引用する。(原文には改行がないところにもここでは見やすいように改行した)

 「現在の道徳・法・習慣を常に疑問視し、異議申し立てする社会メカニズムの確保が大切だ。良識と呼ばれる最も執拗な偏見をどうしたら打破できるか。

なるほどと関心する考えや、学ぶ点だと納得される長所は簡単に受け入れられる。 だが、自分に大切な価値観、例えば正義や平等の観念あるいは性タブーに関して、 明らかにまちがいだと思われる信念・習慣にどこまで虚心に、そして真摯にぶつかれるか。 自己のアイデンティティが崩壊する恐怖に抗して、信ずる世界観をどこまで相対化できるか。

 異質性への包容力を高め、世界の多様性を受けとめる訓練を来る世代に施す。 これが人文学の使命である。」(p141)

マインドフルネスに期待、そして失望

 マインドフルネスが日本に紹介された時に、期待した。日本に紹介した早稲田大学の春木豊先生は、包容力のある人だった。マインドフルネスの普及をはかる団体に私を招いてくださった。 京都ではじめておあいした。アメリカのものとは違うマインドフルネスでうつ病などを改善する支援をしていたころだった。
 私が東京に戻ってから、先生の主催するマインドフルネスの団体の理事に招いてくださった。 そこは、様々なマインドフルネスの推進者、研究者が発表していた。私も発表させていただいた。こうした開かれた研究発表の場所があってこそ学問が発展してゆく。ボスと多数派 で支配されることのない発表の場所。

 しかし、先生が亡くなってから、その団体は活動停止した、失望した。やはり、創業者がなくなると内部分解してしまう。大学人の「力」は強い。

 オルテガが大学人のエゴイズムを批判した。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4100
 大学人が権力を使って多数派となり、少数派を排除する。その既得権にしがみつく小市民の貧困な精神と結託して多数派工作。

 小坂井氏もいう。

 「大学人も人間だ。弱い人間だ。群をなせば、そこに権力構造が生れ、学問の理想とかけ離れた世俗の思惑が渦巻く。立派な点前の陰に、既得権にしがみつく小市民の貧困な精神も透けて見える。
 「大学など、なくしてもよい」
正直、そう思う日も少なくない。大学は本当に必要なのか。これは大学人や学生だけの問題ではない。市民社会全体の未来にかかわる選択だ。我々は大学を、そして人間をどうしたいのか。」 (p145)


少数派でも学べる場を作る

 仏教、禅、マインドフルネスの周辺をかじっているが、この領域では大学には多数派説以外の説を聞く機会がない。春木先生が作って広く学ぼうとした場所を再建したい。小坂井氏の話も聞ける機会を持ちたい。
 今、大学ではない社会人が学ぶ場所(〇〇大学と称している社会人向けの教育機関)にいっている。これに倣い、多様な講師を呼び、毎月1回くらいの講義を提供していくこと、インターネットで募集していく、こういうところを作り、多数派(それは本を読めばいい) とは違う意見(本にない)を知ることができる場を提供する団体を作りたい。
 小坂井氏がいう。少数派が社会を変革すると。それが妥当であれば、それを支持する市民も出てくるだろう。需要が多ければNPO法人にする。
 「一隅を照らす」一隅から変革していく。
 メンバーとなって事務を進めていくことに興味ある人はご連絡ください。

 多数派説はわかりやすいが、すぐあきられる、深い人生問題には解決貢献しない。
 仏教、禅の衰退も、そういうところにもあるのではないか。マインドフルネスがブームになったのを見るとそういう感じがする。開祖には、もっと広く深い観察を言っているはずだ。わかりやすく説明すればいい。悩む市民は反社会的カルトの被害にあうおそれがある。貴重なものを含む伝統寺院が消滅するのは惜しい。開祖のものはそんなに魅力がないものなのか。私は少数説の禅で救われたのだが。
 仏教、禅には、専門家大学人のようなエゴイズムを「煩悩」(大乗仏教)とか「己見・我利・我執」(道元)といって観察するように強調している。自分の見方(見る時)、考え方、行動にそういうエゴイズムが含まれているという。無評価のマインドフルネスよりも深く、人間を分析している。ポージェスのポリヴェーガル理論が「マインドフルネス」の限界をいうのも、これに関連していると思われる。従来の多数派説だけが仏教学の真相ではないはず、無評価のマインドフルネスだけが「科学学問」ではないはずである。
 各団体の若手は、自己観察の哲学・実践の言葉の多様性を自分の頭で再検討していただき、従来のものでは解決できないで悩む国民を支援していただきたいものと思う。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3875
★社会人のための学ぶ場が必要
 「国民から遊離した大学の学問の現状を批判的に考察し、生涯学習を中心とした現場主義による学問の再編成を提言する。」(阿部謹也の『学問と「世間」』の内容説明)
連続記事目次
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4413
もう一度学問にある専門家多数派のエゴイズムを考える
(参照)「答えのない世界を生きる」小坂井敏晶、祥伝社
Posted by MF総研/大田 at 07:32 | エゴイズム | この記事のURL