(3)内部だけでしか通用しない理論枠に縛られ [2019年11月11日(Mon)]
(3)内部だけでしか通用しない理論枠に縛られなぜ、変われないのか。小坂井氏の著書から引用する。「科学である以上、実証研究は重要だ。だが、重箱の隅をつつくことばかりに夢中になって、哲学の議論や認識論の考察に耳を塞いではいけない。米国心理学会の重鎮ジェローム・ブルーナーの嘆きを聞こう。・・・(中略)
多数派の閉じた体系になっている。内部だけでは処理、正否判断ができない。「マインドフルネス」は感覚など意識作用を「客観的に観察するというように、定義、理論、思想も、その枠内からはその妥当性は見えない。それを離れて外部から客観的にみた時に、「科学的に」妥当性があるか見えるのであろう。 多数派は、画一的、全体主義的になりやすい。しかし、批判者が現れる。 多数派のものがすべてのメンバーに同意されるわけではない。批判的なものが現れる。 多数派は現状維持となるので、複雑な社会に合致しない問題、変動していく社会にそぐわないものを変革していくものは、まず少数派である。多数派からは異端、異邦人に見える。 「文科系学問が扱う問いには原理的に解が存在しない。そこに人文学の果たす役割がある。社会をよりよくするためではない。何が良いかは誰にもわからないからだ。いつになっても絶対にわからないからだ。社会が全体主義に陥らないように多様性を確保する。社会の暴走を防ぐ。そのために異端者がいる。」 (p143) 仏教の学問にも、禅の学問的多数派に批判的な意見が出てきた。心理学、精神療法も新しいものが出てきた。マインドフルネスもそうで、ポリヴェーガル理論により変化があるだろう。 仏教や禅の学問で多数派の論が教えられてきて今や魅力を失っている。「寺院崩壊」が言われる。「地方消滅」で「寺院崩壊」は現実味を帯びる。 だが、多数派からは見落としされているものは含まれていることを指摘する人がいる。異端に見えるが、それが、現代世界を変革させていく異邦人かもしれない。寺院崩壊を防ぐかもしれない。 禅の学問の多数派は「坐禅が尊い、悟りなど妄想だ」というが、少数説は、禅には深い人間哲学もあるというものだ(鈴木大拙、井筒俊彦など)。少数説がこれからの社会問題を変革するものを含んでいるかもしれない。大乗仏教の核心が指摘された(大竹晋氏)が、多数派が排除したものが日本仏教にもあったかもしれない。多数派が深いものは国民に理解されないとして排除したものが、現在の日本の社会問題の解決に貢献できるかもしれない。仏教や禅の学者が、哲学やマインドフルネス学と議論すれは、隠れていたものが見えてきて、仏教や禅が国民から期待される変革を起こすかもしれない。「寺院崩壊」はいかにも惜しい。 連続記事目次 https://blog.canpan.info/jitou/archive/4413 もう一度学問にある専門家多数派のエゴイズムを考える (参照)「答えのない世界を生きる」小坂井敏晶、祥伝社 |
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