宗教レベルのマインドフルネスでないと解決しない苦悩
[2019年06月01日(Sat)]
宗教レベルのマインドフルネスでないと解決しない苦悩自己の意識の観察の進化したものが、仏教であり、大乗仏教では頂点に達しました。 大智度論でみたように、「これが悟りだ」と満足することはありません。まだ苦悩する人が見えるからです。深い宗教レベルの自己洞察が必要になります。https://blog.canpan.info/jitou/archive/2614 ★心理療法者、精神科医の領域えはなく、宗教の領域。もちろん、宗教者でありかる精神科医であるひとは扱える。これは、フランクルもいう。 https://blog.canpan.info/jitou/archive/3178 https://blog.canpan.info/jitou/archive/2420 ★対象的に見られる自己を越えたもの 見られた自己、意識される自己の奥底から働くものがある。意識する自己もそこから生れるもの。昭和の時代には、実際に指導してくれる禅僧がたくさんおられました。平成の時代には、ほとんど知られなくなりました。「マインドフルネス」が初歩的な観察方法を教えてくれますが、自己を超えたマインドフルネスは見当たりません。 https://blog.canpan.info/jitou/archive/2080 ★ACTの文脈としての自己はなお見られた自己。これを越えたもの。SIMTの 意志的自己、叡智的自己もみられた自己、それを越えて内奥から働くもの。それを、日本的霊性、絶対的一者、絶対無、無分節などという。昭和の時代の深い禅のレベルであり、これにより、深い問題が解決する可能性がある。 前に列挙した自己他者の苦悩はみなみられた自己に関する苦悩だから、宗教レベルの自己洞察によって、違う有様がみられることになる。見られた自己存在について思考して苦しむ、差別して苦しませる、殺す、自殺するなどの反応が変化するだろう。他者を苦しめる考え、差別する考え、殺す意識などは、みなエゴイズムであることがわかる。すべての人間が、根底に平等に絶対的一者、人間である人格性を持つことを認める。 実践して現実に体験することを大乗仏教で、自内證というものです。大乗仏教では、その方法としては、六波羅蜜の実践、唯識観が説かれていますが、もう、現代では、文章の理解にとどまり、実際に自内證までにいたることをおしえるところはないでしょう。 禅では公案による方法や坐禅による方法があると言われてきました。随分多くの人が体験しています。ただし、言葉による説明が少なく、おまけに、仕事や家庭を持つひとには、実際にはむつかしいです。もう一つ、西田幾多郎が、実践論を書いています。これにしたがって、その哲学を理解しながら、至誠の生活をしていく方法があります。 【目次】第4世代の認知行動療法、第5世代の認知行動療法? https://blog.canpan.info/jitou/archive/4236 |
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Posted by
MF総研/大田
at 10:42
| さまざまなマインドフルネス
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