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【目次】どこかに固定すると社会的救済が限定される [2018年12月04日(Tue)]
【目次】 誤解だらけの瞑想、坐禅、マインドフルネス】

どこかに固定すると社会的救済が限定される

https://blog.canpan.info/jitou/archive/2425
★大乗仏教者の倫理

 大乗仏教は、他者の救済という点ですごい方針を持っていました。 「どこにもとどまるな」というのです。 どこかにとどまると、限界を作ります。定義すると、その定義からはずれた人を救済しない口実を作ります。
 たとえば、「仏道は坐禅である」と定義すると、他者救済をしなくていいことになります。 「仏道は悟りである」と定義しても、救済をしなくてよいことになります。仏教の目的は「六道倫理からの解脱」であるというと救済をしなくなります。瞑想、坐禅をして、「ある気持ちいい」体験をして、「これこそ、瞑想、坐禅の最高の境地だ」と執着すると、他者の家庭職場における苦悩の解決をしなくなります。みな、「これこそ最高だ」と留まるのです。社会的生活の創造行為ではありません。気づいていませんが一種の逃避です。内面を見ているだけであり、社会に向かって創造行為をしていません。 そして、自己は満足していて、こういうのも「自利・我利」というのです。彼等の喜び、自己満足の枠外で多くのひとが苦しんでいます。気づきにくい心理ですが、大乗仏教は厳しく戒めています。今は、「無評価観察のマインドフルネスは科学」であるとして、自己満足していることが多くなっているかもしれません。彼らの見ないところで多くの人が苦しんでいます。自殺も多いです。
 マインドフルネスは多分、初期仏教の「正念」、つまり、自分の心を観察することが源流にあります。(私は、道元禅からでしたが。ジョン・カバット・ジン博士も道元禅師を尊敬していると序文に書いています。)
 初期仏教は、すべての心理現象を観察するようにいっていました。しかし、大乗仏教もそうでしたが、観察の目標も範囲、哲学も方法も違います。違う方向へいってしまいます。
 ところで、「マインドフルネス」が「科学」というのであれば、仏教が長年月に検討してきたことを十分研究すべきでしょう。そうでないと、「科学」という看板によって、 悩むひとが「マインドフルネス」のある種々のひとびとの生きがいの道具にされてしまうおそれがあります。

 欧米のマインドフルネスであるMBSRは、痛みの緩和ですから、主に感覚の「無評価の観察」という「定義」 ですみます。しかし、「科学」でそれを強調すると、その定義を超えるものは「科学」ではないかのように受けとられます。それでは、「科学者」が「無評価の観察」では解決できない問題にとリくまなくなるおそれがあります。そこです。大乗仏教者の倫理でいうのは。どこかに「定義」で枠組みを作ると、その人間はその部分に生きがいを感じてとどまり、それを超えたところで苦しむ人を支援しなくなるからです。大乗仏教は、人間の心理を深く解明していました。現代人も原則として叡智的自己ですから、自分の好きである、ためになると「評価」した領域をいきがいとします。他のことを見向きできません。人間には限界があるからです。狭い領域の専門家にすぎません。だから、科学学問は慎重であるべきなのでしょう。学僧が「文字」による定義、解釈に執着して実践や救済をしない弊害を大乗仏教は、知っていました。だから、無住処涅槃の教えが主張されたのです。人間のエゴイズムを実に鋭く観察していました。こういうことが日本仏教では言われなくなりました。その結果が現状です。

 大竹晋氏が、現代の日本仏教は、大乗仏教の本道からそれていると指摘しました。 他者の支援(慈悲)、自内證、人間完成の3つに欠けるということでした。

 そうすると「マインドフルネス」であっても「無評価の観察」でない観察の研究をしないはずです。どこかに留まるとはそういうことになります。
 「マインドフルネス」にも「仏教」にも、種々のものがあります。どれが好きか、どれがいいか、「評価」したはずです。もうそこから評価が始まっています。不正ではないか、パワハラでないか、虐待でないか、嫉妬で陥れるのは卑怯でないか、・・・、色々な「評価」「観察」をしなければなりません。「マインドフルネス」も色々あっていいわけですが、クライアントを傷 つけない、金儲けの道具にしないように、エゴイズムのこころを観察しなければなりません。

人生は「評価」の連続

 瞑想する時にも、「安全」な場所であるかを評価します。危険な場所ではしません。 うつ病や不安症などで悩むひとは、どのカウンセラーのもとにいくか、種々の情報によって「評価」します。 マインドフルネスの提供者が、本当にスキルを持つひとなのかをクライアントは気にします。スキルや場所やカウンセラーを安全だと評価できるところにいきます。女性のクライアントは、男性のマインドフルネス者であると警戒するかもしれません。安全であるか評価します。当然です。生き延びるために、人生をむだにしたくないために、人間はすべて人生のすべての瞬間に、無数の評価をしています。
 自分の評価、判断、観察はいかにするのか。「宗教」はすべての心理現象を2千年も研究してきました。変化し成熟しあるいは後退してきました。「科学」的な「マインドフルネス」(無評価の観察)は、まだ30年にすぎません。しかも、ごく一部であり、哲学(理論の背景)、方法もまちまちです。これからです。
 マインドフルネスに軽薄なものがあります。誠実な人を苦しめます。私はもう30年近く、やってきました。マインドフルネス、瞑想、禅の方法は、簡単ではありません。哲学や思想によってとんでもない方向にいってしまいます。悩みを持つ人が第二次被害を生み出すおそれがあります。
 私はもう高齢で長くできません。従来の宗教思想が通用した時代ではありません。長老からの縛りから解放されて、若いひとが参画してください。環境が激変しています。若いひとが次世代の社会を作っていくべきです。似た領域に、いくつかの学会があります。心理学にも、仏教にも何十もの学会があります。「観察」の学会も「定義の違う」いくつかのものが必要(*)であると感じています。問題別の学会または研究会も必要になるかもしれません。多くの人が参加してほしいです。

★がん患者さんのためのマインドフルネス
 がん患者さんのためのマインドフルネスの研究会も特化して、関心ある人がすすめるべきだと思います。臨床宗教士は、宗教者だけです。それ以外のひとはなれません。また、死の不安のマインドフルネスを患者さんにアドバイスするわけでもないでしょう。
 心理士、看護師、NPOの人など、10年も続くがん患者さんをささえるマインドフルネスを研究すべきです。関心のあるひとは、ご連絡ください。

(*注)もうマインドフルネスが日本に紹介されてから10年近くなるのに、「うつ病を治すマインドフルネス」や「がん患者のためのマインドフルネス」は、どこの病院で研究、実施されているのでしょうか。自殺防止に必要であるのに、うつ病の治療に特化したマインドフルネスをどこで研究しているのでしょうか。「マインドフルネス」だけではだれも「やろう」と「評価」しないかもしれません。うつ病や不安症などを治すマインドフルネスは難しいからです。「再発予防」だけでは自殺を防止できません。治らない人が何十万人もおられるはずです。

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【誤解だらけの瞑想、坐禅、マインドフルネス】

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4083
★宮城県大崎市の千手寺で講演
 意志作用の哲学を理解して実践。本音の観察評価
 仏教の課題、マインドフルネスの限界

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★マインドフルネス心の健康クラブと宮城県で講演
 うつ病の予防と改善、25年

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★今年度のマインドフルネス心理療法SIMTの講座
 =ポリヴェーガル理論の批判にも耐える日本のマインドフルネスSIMT
  これを普及するマインドフルネス瞑想療法士🄬
  これを理解し職場で西田哲学の実践論を活かす経営者、管理者、研修者 

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★子どもの自殺防止対策
 =昨年度自殺統計、子どもの自殺が減少しない

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★ポイエシスとプラクシス
=自己完成への実践はすべての人のもので、ほかに各人の価値遂行には対象的社会的働きを行使

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★マインドフルネスSIMTは暴風も渦巻く海を航海して自己船を目的港に進める操船技術

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★講演会でした
【1部】マインドフルネスの問題点
【2部】仏教の問題点
【3部】これからの研究課題

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★新しいマインドフルネス、新しい仏教は新しい人材で

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4068
★欧米のマインドフルネス、MBSRをみてみました

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4059
★新しい本を出版いたします= 欧米のマインドフルネスと日本のマインドフルネスの違いも

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4058
★日本の鈴木禅哲学、西田哲学による実践は「評価社会でするマインドフルネスである」

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4056
★欧米型マインドフルネスは安全な場所で行うもの/ポリヴェーガル理論

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★欧米型マインドフルネスの限界をいうポージェス/ポリヴェーガル理論

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★臨床の現場と研究者とは大きな隔たり

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4050
★専門家は自分の選んだ価値を実現して喜ぶが・・・・

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★うつ病、非定型うつ病のマインドフルネスによる支援は難しい

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★至誠で観察のマインドフルネスSIMTの効果と今後の課題

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★だから、日本型マインドフルネスが必要

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★どこかに固定すると社会的救済が限定される

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★日本のマインドフルネスは禅に源がある「至誠」で見ること

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★初期仏教はダルマを実体視したのを大乗仏教は空(くう)とした

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★種々の自己をいったりきたり

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★無評価観察のマインドフルネス即「科学」ではないはず

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★マインドフルネス瞑想は誰がやっても科学的でしょうか

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★対人場面と仕事の場面では評価前提のマインドフルネス

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★浅い作用をする自己、深い作用をする自己

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★すべての人間の自己は絶対無の場所に於いてある

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★すべての人間のこころと現実の歴史の底にはいつも宗教的なものが動いている

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★すべての人の根底から愛の光が

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★「多数派」はいつも正しいか

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★マインドフルネス精神療法研究会

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★マインドフルネスによる専門家の倫理
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【書籍紹介】『大乗非仏説をこえて』大竹晋、国書刊行会
 仏教に瞑想があるが、誤解だらけ。 「瞑想」は種々の問題をはらんxできた歴史がある。 マインドフルネスはどれを参考にするのだろうか。 どれも参考にしないと、歴史を繰り返す。 瞑想、自己の観察=マインドフルネスはむつかしい。人間は難しい。独断偏見、自分のもの、自分のいきがいとしたものが正しいと執着をする、他の聞く耳をもたない、学者も。
Posted by MF総研/大田 at 22:14 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL