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(16)大乗仏教は自内證で教理の正しいことを証明する [2018年10月10日(Wed)]
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(16)大乗仏教は自内證で教理の正しいことを証明する
 =しかし、ほとんどの僧や学者が自内證しない

 次の本は、日本の仏教者が信じているという大乗仏教は ブッダの仏教ではない、別の宗教だと指摘しています。

『大乗非仏説をこえて』大竹晋、国書刊行会

 日本仏教は、大乗仏教の本道から乖離しているという。「利他」が弱い、人間完成がない、自ら証明する「自内證」がない。 ここで自内證についてみておく。自内證とは、禅の場合、「悟り」「見性」と言われているもの。(自内證は自内証とも書く。同じである。)

上座部の阿含経による自内證

 「阿含経が歴史的ブッダの直説であることは、推理によって論証されるべきことではなく、体験によって自内証("個人的に確証")されるべきことなのである。
 阿含経は、かつて悟りを体験したブッダによって他者に悟りを体験させるべく説かれたと伝承され、現実に、多くの他者が阿含経にもとづいて修行し悟りを体験してきている。」(p86)
 その体験によって、もはや再生しない、輪廻しないと確証を得たのである。

大乗仏教による自内證

 大乗仏教も、自内證して、その教説があやまりでないことを証明する。(ただし、言葉で表現される内容は違う。教説が違っている。今世では、仏にはならない。)

 「大乗仏教が仏説であることは、推理によって論証されるべきことではなく、大乗経にもとづいて修行した者たちの悟りの体験によって自内証("個人的に確証")されるべきことなのである。悟りをもたらす以上、大乗経はいつわりではない。」(p103)

 「大乗仏教においては、大乗仏教の悟りを、教えである大乗経にもとづかず、教外別伝("教えのほかに別に伝えられたもの")である禅にもとづいて修行し、体験することもできる。
 大乗経が仏説であることは、大乗経にもとづいて修行したものたちの悟りの体験によってはじめて確かめられることである。禅にもとづいて修行した者たちの悟りの体験によって確かめられることではない。」(p98)

 理解することが難しいでしょうが、やむを得ない。体験は、同じであるが、言葉で表現されることは違ってくる。西田哲学によれば、キリスト教の聖書も禅も真宗も、体験は同じとみている。絶対無である。

 本書は、悟り、自内證の体験記を紹介している。

 「近現代の日本において、大乗仏教教団である諸宗に属する人々が、大乗非仏説論によって容易に動揺させられ、屁理屈のような大乗仏説論を盛んに繰り広げたのは、近現代の日本において、諸宗に属する人々が、大乗仏教の悟りの体験を失っていたからに他なるまい。」(p104)

 「これが真実だ」というからには、何人かが自内證して証明する人がいなければならない。 体験者がいないのであれば、真実かどうかわからない。
 こういうことを、大乗仏教のうちでも、唯識は、勝義諦が真実であるという。言葉によらない体験にもとづく。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3573
 言葉で書かれたものは、すべて世俗諦である。言葉になっている法華経、華厳経、唯識説もみな世俗諦であるが、勝義諦の体験もある。学者の研究、出版はみな世俗諦である。自内證の体験はないだろう。それゆえ、自内證を否定する学者がいる。理解できないから否定する。だが、そういう態度は、学問的とは言えないと上掲の著者はいう。仏教学、禅学が誤ったものがある。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3060
 大乗仏教は、自内證の体験を無生法忍といった。

禅にもとづく自内證

 このような、自内證の重要性をいう仏教として「禅」があった。曹洞宗と臨済宗、黄檗宗である。禅にもとづく体験者が昭和までは多くいたが、平成にはほとんど見失われた。 上掲書も、禅の体験者を紹介している。

 「禅系の諸宗のうち、臨済宗、黄檗宗は教外別伝という立場に立ち、いかなる大乗経にももとづかない。特に臨済宗は「仏に逢はば仏を殺せ」(「臨済録」)と標榜しているほどである。したがって、もし"大乗経は歴史的ブッダの直説ではない"という大乗非仏説を受け容れたとしても、これらの諸宗は説得力を失わず、存在意義を問われないのである。」(p181)

 しかし、大乗仏教でもない、歴史的ブッダの仏教でもないとしても、どのような存在意義があるというのか、自分たちでその根拠を示す必要がある。それはいまだ成功していない。「目的を持たない坐禅が尊い」というのでは、すべての人類に普遍的ではない。存在意義が問われる。また、臨済宗は見性の前も後も「公案」を用いるが、悟った後の公案は何を目指すのか公開されていない。そうなると、これも、すべての人類に普遍的な真実であるのかわからない。鈴木大拙などの著作で部分的に推測できるだけである。公案には「人間完成」の目標もあるようであるが、公開された説明がなく、ただ、室内の口伝になっている。どのような「人間完成」なのかはわからないので、普遍性があると主張できていない。一般市民に開かれていない。

 前の記事とこういう状況では、仏教関係のひとは、現代社会の問題解決のために「マインドフルネス」のような、説明して実践してもらう現代人のための実践法を指導するのが大変だろうと推察します。出家が中心であった頃(中国の宋の時代に開始され、日本の江戸時代の白隠が完成)の、指導法(公案)では、現代の一般在家はついていけません。新しい手法を開発しないと「利他」になりません。一般人の「利他」は目指さないというなら、それもいいだろう。存在意義がわからない。

 「只管打坐」は、平安時代末、鎌倉時代の道元禅師の指導法というが、坐禅すればそれだけならば、利他、人間の完成、自内證がなく、普遍性がない。しかし、道元には、絶対無に該当するものの説示があるというのが、哲学の研究者の認めるところである。とすれば、禅関係の専門家の「学問」と食い違っていることになる。道元を坐禅だけのものとするか、西田哲学のような人間の根底や利他、人間完成(道元には己見我利我執の抑制の説示が多いのだが)を言うことがないのか、宗学の検討が必要であろう。さもないと、坐禅以外の職業・家事に従事する(まさにその瞬間にも禅の心得がないのか)ことが多い一般人には、魅力を感じないないだろう。ここへんも、心理学者や市民が宗門の禅から離れて「マインドフルネス」にむかった理由があるだろう。

 悟りを得た禅僧は、悟りの体験は歴史的ブッダの成道、解脱の体験と同じであるとみているはずです。そういう意味では、禅の悟りは釈尊の解脱体験に直結するということもできます。大乗仏教も禅の語録(道元の正法眼蔵など)は釈尊直説ではないが、背景にある自内證の体験はおなじであるとみていると思います。だから、禅の人がいう「生きながら死人となりて」というのと上座部の阿含経で「もはや再生しない、輪廻しない」というのと似ています。
 しかし、「智慧」(哲学)が違うと、六道輪廻からの解脱ととったり、禅のような普遍的な人間の根底の真実の智慧を得たりするわけです。キリスト教の信者が自内證すると 聖書の新しい解釈の智慧が得られるはずです。大昔は、エクハルトがいますし、 近代にも、キリスト教の人が、禅に参じて自内證している人がいます。 「智慧」「哲学」「思想」など、その時代と環境に制約されるか、時代環境に制約されない「智慧」を証明する、実践するかということになります。

マインドフルネスSIMT

 マインドフルネスのうちでも、自己洞察瞑想療法(SIMT)は、大乗仏教の方向に類似する。利他、人間完成、自内證などがあるからだが、 しかし、哲学思想も方法も大乗仏教の経典によらず、西田哲学の自己観(実在論)、実践論(実践指針)による。初心のうち(意志的自己レベル)は、全く宗教レベルではない。心理学的であり、言葉で理解できる。意志的自己を自内證するし、叡智的自己は行為の真っ最中は自己意識がないことを自内證する。行為の後に自覚する。 「人間完成」としては、独断的な執着・嫌悪の気づき、抑制がその入門といえるだろう。「利他」の側面は、社会のために生きる人生価値の確認、実行がそれに類似する。SIMTは大乗仏教に似ているが、大乗仏教経典にもとづかず、西田哲学に基づく。 叡智的自己まで対象的に自覚(自内證)できるので、宗教レベルではない。 このレベルでも現代の社会問題(うつ病、人格否定の苦悩など)に広く活用できる。
(参考書)「うつ・不安障害を治すマインドフルネス」佼成出版社、 「マインドフルネス入門」清流出版

 人格的自己は、自内證して体験する絶対無がすべての人間の根底だというが、誰でも体験できるものではない。禅の見性と似て自内證は難しいので、「宗教レベル」と言える。だが、西田哲学が論理的に説明したので、哲学が理解できるひとは肯定するだろう。入門書として『西田幾多郎』(佐伯啓思、新潮新書)がある。
 意志的自己、叡智的自己までの実践論は比較的容易である。これを教える人が「マインドフルネス瞑想療法士」🄬である。人格的自己への実践論は、西田幾多郎が記述しているが、これを具体化するのが、人格的自己レベルのマインドフルネス(自己洞察)である。西田哲学の研究者の意見をききながら開発、修正できる。

 (この記事は、難しいはずです。やむをえません。西田哲学が絶対無、自内證によって体験するすべての人間の根底を説明していますが、仏教学者や僧侶であっても理解できない人がいるほどですから。秋月龍a氏が批判していました。「思想的な怠惰」と。( https://blog.canpan.info/jitou/archive/3789
 そして、上掲書が、仏教の専門家(学者、僧侶)が、仏教の学問的真実の究明を怠ってきたというのです。叡智的自己であり自分のものに執着・とらわれつづける可能性があるので、心理学、医学、 哲学、マインドフルネスに関心あるひとなど、また、一般人(うつ病、がん患者、その家族)など別の人材が探求すべきでしょう。
【書籍紹介】『大乗非仏説をこえて』大竹晋、国書刊行会 【連続記事】【日本では、なぜうつ病などの心理療法が普及しないのか】
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3889
【自己保身、「空気」を読む、忖度する】

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3866
『忖度社会ニッポン』(片田珠美、角川新書)

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3873
『「空気」の研究』(山本七平、文春文庫)

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3875
阿部欣也の「世間」。記事の本のほか『「世間」とは何か』(講談社現代新書)

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3853
【目次・書籍紹介】「正しさをゴリ押しする人」(榎本博昭、角川新書)

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3918
『日本型組織の病を考える』村木厚子、角川新書

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3916
『異端の時代 〜 正統のかたちを求めて』森本あんり、岩波新書

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3461
『見て見ぬふりをする社会』マーガレット・ヘファーナン、河出書房新社

【連続記事】【日本では、なぜうつ病などの心理療法が普及しないのか】
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3889
Posted by MF総研/大田 at 21:03 | エゴイズム | この記事のURL