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(14)現代の社会の変化に対応しない人間哲学のマインドフルネス [2018年09月30日(Sun)]
【連続記事】【日本では、なぜうつ病などの心理療法が普及しないのか】

(14)現代の社会の変化に対応しない人間哲学のマインドフルネス
 =弱いのが「利他」と「人間完成」と「自内證」
 =仏教を超えて現代哲学による実在論・認識論・実践論を

 前の記事 ( https://blog.canpan.info/jitou/archive/3928 ) の続きです。

 『大乗非仏説をこえて』大竹晋、国書刊行会)は、日本の仏教の専門家(僧侶、学者)を批判しています。もっともです。日本仏教は、大乗仏教の核心である、一般人への利他が弱いというのです。福徳・利他をすべきということです。原始仏教の問題点を次のように総括しています。

 「敢えて言えば、大乗仏教は仏教が仏教を越えてゆくためにあるのである。
 歴史的ブッダの仏教は尊敬すべきものであるが、そこには、福徳ーー第4章において確認したとおり、施、戒、忍辱であり、利他であるーーを積むことによって人として完成していこうという考えかたや、人を超えて無限に向上していこうという考えかたがなく、さらには、歴史的ブッダの仏教に反してまで他者を救おうという考えかたがない。それは人類の多くが共有できる人間観ではない。」(p246)

 東南アジアの仏教(部派仏教)と大乗仏教は違う点が多くて、別の宗教であるという。

 東南アジアの仏教は「マインドフルネス」として限定された領域(集中力、再発予防など)で現代の社会問題に貢献しているのに、日本の仏教は、現代の社会問題の解決(利他か)に理論と手法の開発に社会貢献できるのでしょうか。東南アジアの仏教が現代に貢献できる(ただし、利他に弱いので限界があるでしょう)のに、日本の仏教は貢献できないのでしょうか。

 上掲書によれば、大乗仏教ならば、「利他」そのものだそうです。また、輪廻を前提にしているそうです。東南アジアの仏教と同じではないが、「輪廻」を信じて、「利他」をしないと「大乗仏教」ではないそうです。「利他」は布施、持戒、忍辱だそうです。この意味での社会貢献できるサービスを「大乗仏教のマインドフルネス」とよんでもいいかもしれません。東南アジアの仏教による「瞑想」(利他が弱い)は違います。東南アジアの仏教のものとは違う「マインドフルネス」が必要です。

★自内證

 おまけに、上掲書には、各派の教えは「自内證」で確認されるといいますが、大乗仏教の場合、「無生法忍」、唯識では「真見道」というのが対象認識によらない体験ですが、それが、臨済宗でいう「見性」と同じものがあるのかどうかの検討が必要です。 西田哲学では、根源の絶対無をいいますが、それは、禅の見性で自内證できるとみています。 西田哲学は体験は認めています。ただし、禅の当時のありかたをすべて肯定したのではありません。禅にも弱いところがあったと。禅の体験をいうひとは、釈尊の「解脱」とは、禅の悟り、見性と同じとみています。この点は釈尊と禅はつながります。また、唯識が言語による理解を世俗諦といい、体験によるものを勝義諦というのと「自内證」は同じであるかもしれません。
 このように、自己の観察〜「マインドフルネス」には、様々なものがあります。「マインドフルネス」=心の観察、自己洞察です。いろいろと、内容、目標が違います。

さらに大乗仏教の実践を超えて、現代人のためのマインドフルネスを

 日本の仏教の各派は、大乗仏教の核心から離れているそうです。特に、利他に薄い。となると、東南アジアの仏教、インド大乗仏教、日本仏教は、みな違うものです。

 そうであるならば、現代らしく現代の人間哲学を基礎にした実在論、認識論に基づく実践論があり、それによる生活実践があってもいいことになります。仏教が現代社会の変動についていっていないならば、新しいマインドフルネス、生活法を開発すべきであるということになります。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3789
 秋月龍a氏が、禅のひとの思想的な怠惰を叱っていました。上掲書のような厳密な仏典の研究を回避してきたし、西田哲学のような哲学の検討も避けてきたのです。それで、市民や組織のメンバーに説くので、魅力を感じなくて、真剣な探求がされません。
 西田哲学の実在論、認識論、実践論は大乗仏教とも、現行の日本仏教とも違っています。西田哲学は、インド大乗仏教(2千年前です)をも批判しています。西田による人間哲学も深化したのでしょう。また、現行の日本仏教も批判しています。だから西田哲学によるマインドフルネスは大乗仏教のマインドフルネスとも現行の日本仏教とも違うでしょう。

 ただし、上掲書の指摘する本来の大乗仏教のありかた(自利、利他)とは似たところがあります。利他とされる布施、持戒、忍辱=ポイエシスのための社会貢献活動(世界創造)に配置するのです。自利とされる精進、静慮(禅定)、般若はプラクシス(至誠の主体創造)、および、全体の哲学指針となり、目標は「人間完成」に近いでしょう。西田哲学によれば、実践指針は「至誠」ですから、プラクシスは、ポイエシス(世界創造)できる主体を至誠で形成するからです。

輪廻

 しかし、輪廻は検討しなければなりません。西田哲学では(そして仏教も)、それ自体で存在する基体はないとします。大乗仏教は輪廻を前提としているというが、大乗仏教で輪廻するという主体は何なのか検討していかないと論理が矛盾しますので、説明が必要です。さもないと、その仏教観は「人類共通」とは言えなくなるかもしれません。 (初期仏教は、輪廻が大前提であると『現代仏教塾T』吉村均、三木悟、岩井昌悟、幻冬舎、でもいう。)
 また、禅宗には輪廻を言う禅僧も輪廻を言わない禅僧もいるので参考になります。輪廻する主体をどうみるのかで違うわけです。悟りを得た禅僧は「生きながら死人となりて」というので、来世に輪廻するものはないということを体験で確証(自内證)しています。利他をつんで来世に「仏」になるという輪廻を前提とした大乗仏教とは違うところも感じられます。禅のさとりは、釈尊の解脱体験と同じであるという禅僧もいます。勝義諦、世俗諦の問題です。 唯識は、文字の体系による世俗諦は真相とはみていません。体験で証明しなければならないとします。「自内證」をいう日本の禅も捨てられません、検討すべきです。ただし、自内證があっても、利他、人間形成がないのであれば、自分だけ悟って終わりですから自利であり、大乗仏教の本道と少し乖離があります。悟っても、苦悩する他者の支援をしないのでは、つまらないでしょう。見性をいう禅もまた、創造的世界の創造的要素であるはずの禅者はどうあるべきか、現代の視点で、再検討しなければ多くの市民のためになりません。
 誰でも生きている唯一の私を意識します。西田哲学では、自分が意識されることを「自覚」といいます。対象的に意識されているので、真の自己ではないといいます。「仮有」でしょう。輪廻をいう人は、対象的に意識されるものが輪廻するしないと議論しているでしょう。西田哲学を理解する人は、意識される自覚は真の自己ではないので、来世の輪廻は問題になりません。絶対無の謝影としての自覚に幾層もの階層があります。

利他と人間完成

 日本の各宗門は、「大乗仏教」の利他をどう理論化するか、それをも超えた利他と「人間の完成」をめざす教えを構築するか必要とされています。インド大乗仏教と西田哲学を参考にして、独自の宗教哲学を検討していけばいいのでしょう。
 「仏教」はこのように種々の問題、解釈がありますので、自己洞察瞑想療法(SIMT)は、「仏教」とはいいません。後期西田哲学の実践論とします。幾層かの段階があります。すべての宗教をも超えて、包含して、人類共通の、普遍的な世界観と人間観を持つ方向をめざすことができるでしょう。上掲書がいう「人類の多くが共有できる人間観」でしょう。
    【参考】
    https://blog.canpan.info/jitou/archive/3159
    ★マインドフルネスには危険なこともある
    (人間完成を言わないので、マインドフルネスの推進者がエゴイズム、自利で団体や社会に迷惑をかける行動も)

理論と実践の乖離

 ただし、大乗仏教は、「世界観」の哲学が論理化が弱いと西田は考えていました。 宗教を超えた、人類共通の世界観と人間観を入れた哲学実践を構築できれば、 フランクルが「一人類教」というものに近いでしょう。哲学が確認できたとしても、 実践はどうなるのでしょうか。上掲書には、詳細な実践論はありません。現在、それを実践している伝統仏教の組織はないのでしょう。どう利他、自利を構築するか。インド大乗仏教経典を誠実に実践化するか、開祖の語録の中に、大乗仏教の本道を見出すか。それをしないと若い僧侶も檀家信者市民もついてこないでしょう。
 「宗教」にこだわらない人には西田哲学があります。西田幾多郎は「実践哲学序論」を残しました。私は「後期西田哲学の実践論」という簡単な論文にまとめました。これを具体化しなければなりません。その時に、上掲書の大乗仏教の本道としての利他のための破戒が参考になります。そして、利他のためならば、仏教から離れることさえも大乗仏教は認めています。 それならば、大乗仏教さえも越えた西田哲学の生活実践でも認めるわけです。大乗仏教は、利他と人間完成です。これを西田哲学のポイエシスとプラクシスに拡張することができます。
 現代の西田哲学の意志的自己は「仮有」としての自己意識とみることができます。 さらに、叡智的自己、人格的自己があります。 私たちがやることがたくさんあります。現在、一般市民、数十名の人たちで、哲学学習、研究、実践、支援の試験的適用、言語化などを行っています。NPOの段階です。学者段階、ビジネス企業段階、公務員段階には遠い道のりです。
【書籍紹介】『大乗非仏説をこえて』大竹晋、国書刊行会
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3962
★西田幾多郎による仏教批判

【連続記事】【日本では、なぜうつ病などの心理療法が普及しないのか】
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3889
【自己保身、「空気」を読む、忖度する】

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3866
『忖度社会ニッポン』(片田珠美、角川新書)

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3873
『「空気」の研究』(山本七平、文春文庫)

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3875
阿部欣也の「世間」。記事の本のほか『「世間」とは何か』(講談社現代新書)

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3853
【目次・書籍紹介】「正しさをゴリ押しする人」(榎本博昭、角川新書)

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3918
『日本型組織の病を考える』村木厚子、角川新書

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3916
『異端の時代 〜 正統のかたちを求めて』森本あんり、岩波新書

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3461
『見て見ぬふりをする社会』マーガレット・ヘファーナン、河出書房新社

【連続記事】【日本では、なぜうつ病などの心理療法が普及しないのか】
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3889
Posted by MF総研/大田 at 23:48 | エゴイズム | この記事のURL