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(133)日本の西田哲学、禅の再検討を  =現代の「マインドフルネス」と禅の位置づけのために [2018年06月16日(Sat)]

(133)日本の西田哲学、禅の再検討を
 =現代の「マインドフルネス」と禅の位置づけのために

 以前、「ある人が禅者の怠惰を怒る」という記事を書いたことがあった。

 「私はここに、「不立文字」のかくれみのに眠りこける、今日の禅者の思想的な怠惰に対して、言いようもない腹立たしさを覚える。」

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3385
(89)ある人が禅者の怠惰を怒る

 元花園大学教授、禅匠(悟りを得て弟子を指導した人)、禅学者、哲学者、キリスト者であった秋月龍aである。鈴木大拙の弟子でもあった。
 この文章の前後を紹介する。今こそ、心を扱う仏教者、心理士、精神科医、終末期医療にかかわる人、マインドフルネスの指導者などが見るべきであると思う。なぜならば、生死観、深い自己、人格にかかわる問題で苦悩するクライアントがいるのに、十分なサポートをしていないはずであるからである。

 「このさい我々この国の、そして東洋の、伝統に対して熱い思いを抱く者こそが、その正しい伝統の把持に立脚して、その新しい合理的な現代への結びつきを、ふたたびけっして歴史の流れに逆行することなく、成就することの急務を痛感せざるを得ない(私はここに、「不立文字」のかくれみのに眠りこける、今日の禅者の思想的な怠惰に対して、言いようもない腹立たしさを覚える)
我々の伝統はけっして単に一部の心なき人々のいうように前近代的・非合理的・非科学的なものではない。私は最後に声を大にして言いたい。こうした見地から我々は今一度西田哲学を見直すべきではないか。 我々は善かれ悪しかれ「西田哲学」をもっと大事にすべきではないか。と。今までのところ、西田哲学だけが、西洋的学問と東洋の伝統との対決を問題にし、またそのつながり方を発見している。なにびともこれだけは無視することは許されない。私はあくまで西田哲学再検討の急務を主張してやまない。好むと好まざるとにかかわらず、我々はここから 新しい一歩を始めなければならないのである。」(秋月龍a「絶対無と場所」青土社)

 私たちは、こんな偉大な「心の世界遺産」をもっている。仏教やマインドフルネスを推進する人, 死が近い人に関わる人にこれが伝えられないのは、とても悲しい。西田哲学はキリスト教と仏教(禅、真)との共通の根源を説明できる。秋月龍aは生前、欧米にわたり、キリスト者と対話し、この日本の宝を紹介していた。日本人が知らないのは、誠に悲しい。

 欧米の「マインドフルネス」が輸入されてきた今日こそ、逆に、日本には、それらのすべてを包み込む、禅、西田哲学がある、深いマインドフルネスであることを欧米の人にも知ってもらいたいのである。もちろん、これを見失っている日本人はなおさらである。これを研究すれば、各種の禅、仏教、マインドフルネスなどの位置づけもわかるであろう。そして、日本で世界で噴出している社会問題の解決の方向の指針になるに違いない。

 何らかの「評価」が働き、貴重な情報が伝わっていない。
【目次】日本のマインドフルネスの再興を

【目次】哲学のあるマインドフルネス、哲学のある禅
Posted by MF総研/大田 at 06:32 | 深いマインドフルネス | この記事のURL