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我見、身見の執着 [2018年02月16日(Fri)]
2021年春発売。
すべての階層のマインドフルネスSIMTの実践ができる本を執筆中です。 感覚的自己、意志的自己、叡智的自己(専門家の自己、行為的直観)、人格的自己(絶対無、無分節を自内證し、創造的直観で慈悲実践)までをカバーする本。マインドフルネスの方法で実践できる本。
対人関係でない感覚的自己の瞑想は、無評価でいいですが、それ以外は、激しい評価の場面、無評価では生きていません。観察のしかたが違います。
私の筆が遅くて遅れています。

NHK Eテレビ、こころの時代
「生きる意味とはーニヒリズムを超えてー」(3) 我見、身見の執着

 2月11日に、NHK Eテレビの放送された「こころの時代」で 島根大学名誉教授、松塚豊茂先生が、「生きる意味とはーニヒリズムを超えてー」 と題する放送がありました。 松塚先生は、哲学者、仏教の哲学を探求してこられた。

 その続きです。(先生の言葉を完全に再現したものではなく多少違っているかもしれません)

 先生いわく。
 「ひとは、我見、身見にからまれたような生き方をしている」
 「我見というものは。私ほどかわいいものはない、私ほど偉いものはない」
 「身見は、私の身体や、かわいくてしようがない身体」

 聞き役の金光寿郎さんがあいづち。
 「ふつう、我見、身見を気づいていませんね。」

 我見(*注2)、身見、我執、自分の見解に執着して、自分で苦しみ、他者を苦しめる。

 「我見というものは。私ほどかわいいものはない、私ほど偉いものはない」と先生が言われた。
 こういうところは、僧侶には弱く、学者に強力である。道元禅師も言った。「文字の学者の指導を受けるな」と。 学者は、多数の文献、経典、語録を読破しているから「自分は偉い」と思う(*注1)。そのせいか、自分の独断を捨てる実践をしない。知性、学識という対象的な論理、思考をめぐらす。自分の我見(*注2)というものを捨てる 実践を深くしないから、悟ることはない。過去のものを整理して、新しい見解を加える。また、対象論理の文章が加わる。

 ところが、才市や庄松のような農民職人、私のような会社員のような、一般庶民は違う。学者からの言葉での説明では、生をおびやかすような深い問題に納得できない。一体、自分とはなにか、どういきればいいのか。どうして死にたくなるのか、生とは、死とは何か。それで、真剣だから、農民、職人が深いものを悟る。真宗に妙好人が多い。鈴木大拙が発掘した。 先生は、才市に触れる。

 このように、人の我見我執はすさまじい。学者は、自分は文献を発掘し、古代インドの文献から翻訳し、論理的に解釈し、学説を構成できる知性を持つ、それで職業とし、収入を得ることができて、尊敬されるから「自分は偉い」と思いこみがち。そうであるから、そこに満足する。下記の注2の、大乗仏教の唯識の鋭い観察をみていただきたい。今も、大乗仏教が批判した学問の形での見解(西田哲学でいう独断)が強調されていて、実際に導く教えが知られない。
 ところが、庶民は違う。日々の生活に追われて、ノルマを迫られ、人間関係に苦しみ、うつにもなり、死にたくもなる。学者の学説では納得できない。そこで、善知識(学問でなく、実際を極めた先輩)をさがす。私の亡き師は、高校卒だったはずで、経典の言葉など一切いわず、ただ、平易なことばや身振り手振りで、「そこ」だけを言った。実践せざるを得ない。

(*注1)
しかし、勝義諦の部分は理解できず捨てて、理解できるところで学説、見解、論文をまとめる。知らず知らず、文献と文章の選択的抽出と無自覚的無視が起きている。道元禅師は「自解」という、捨てよという。

(*注2)
 「我見」「我執」について、二人の唯識の研究者の説明を参照する。
 「我執は悪見の中の薩迦耶見に他ならない。この薩迦耶見のうち、ある法の「用」に迷うのが我見、その「体」に迷うのが法見」(竹村牧男,1985『唯識の構造』春秋社p121)

俱生起(先天的)の我執は「五蘊を縁じて自の相分にその映像を浮かべ、そこに実我を執するものである。」(同p121) < 五蘊というのは、色受想行識=大田健次郎追加>

「<我見>とは「我執のこと、非我の自分をあやまって我とすることだといわれる。この場合、「我」とは「不変の実体」のことだから、「不変の実体はないのに、それをあると思い、その誤った<我>の虚像に執着すること」である。」 (太田久紀,1985「凡夫が凡夫に呼びかける唯識」p117) 「<薩迦耶見>はその真相がわからないのだ。おれはおれの力で生きていると思いあがっている、他のものは自分のものは自分のために在ると思っている、そういう自己中心的思惟である。」(同p325)


これは、次の一部です。
<目次>「生きる意味とはーニヒリズムを超えてー」
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3684
Posted by MF総研/大田 at 07:00 | 深いマインドフルネス | この記事のURL