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『寺よ、変われ』(3)四苦に寄り添いながら、課題の解決を図っていく [2018年01月30日(Tue)]

『寺よ、変われ』(3)四苦に寄り添いながら、課題の解決を図っていく

 「形骸化した葬儀と法事を続けるだけなのか?」(帯より)

 どの組織も、社会に貢献したいという目的(価値)を持つはずであるが、仏教教団は、葬式・法事のみでいいという声も多い。しかし、著者は、それだけではないはずだという。 著者の仏教としての寺の役割はこうである。

 「私はこの神宮寺で「寺とは何をする場所か」「坊さんとは何をする人か」をずっと問い続けてきた。その問いに対して、私は「社会に起きている、あるいは起きようとしているさまざまな『いのち』にかかわる難問(四苦)にアクセス(接近)する。そしてその難問に対して、支えの本性(利他心)を発動させ、四苦に寄り添いながら、課題の解決を図っていく、という役割を担うのが坊さんであり、その拠点として寺がある」との答えを導き出した。多くの人々と「いのちの現場」に一緒にたたずんだ末の結論だった。」(p222)

 こういうことをいったり、したりすると、批判される。称賛すればいいのに、なぜなのか、 批判する人の「本音」はなにか。

 「本音」とは、他人には知られたくない、おぞましい心理のことである。大乗仏教では、「煩悩」 として「マインドフルネス」(観察、気づき)すべき意識である。 こちらに、現代人が観察しやすいように アレンジして、観察している。本音(煩悩に似ている)が、自分を苦しめたり、組織の本来の役割を阻害したり、社会の発展を妨害したりする。現代流にいえば、エゴイズムの心理である。結局は、組織全体の立場や、それのおいてある社会の立場ではなくて、個人の利益の立場に立つ。

 教団は、本山をかかげて、多数の寺(宗教法人)と共同で目的を実現していくので、企業グループに類似する。企業グループのどれかの法人か支店が顕著な業績をあげてくれれば、グループ全体の信用があがる。教団であっても、どこかの寺が顕著な社会貢献をすれば、教団全体の評判があがるはず。自分は、檀家が多くて葬式法事以外のこと、幼稚園などの経営などに忙しいからできないが、そういう貢献活動は大いに応援したい、と言わないのだろうか。どうして、足をひっぱるようなことをいうのか。

 「マインドフルネス心理療法」は、仏教の禅や念仏に似たところもあり、その気になれば、僧侶がこれを応用した苦の改善支援ができるのだが、あくまでも、ある特定の見解(それは、大乗仏教や道元がいう見取、己見ではないのだろうか)に従い、こういう社会と接点を持てる活動を排除するのだろうか。

 竹村牧男氏(東洋大学学長)は、こういう。
★偉大な教団人の出現が得られるかどうか
 つまり、内部の反対、批判もあるだろうが、強いリーダーがひっぱれば可能だろう。

 だが、教団がしないならば・・・。
竹村氏は、こうもいう。
★教団が再生しないならば、「既成の宗門を離れたところで展開されていく仏教」

 本当に、じり貧になって、地方寺院は消滅し、代わりに、在家による「マインドフルネス」のような人たちによって、著者の高橋氏のいうような、仏教のありかたは、繁栄していく。
 教団の若手は、本当に、それでいのだろうか。本心からの夢、人生の価値、生き甲斐は、それでいいのだろうか。たった、一度の人生だが。

(続く)
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3675
<目次>『寺よ、変われ』高橋卓志、岩波新書


https://blog.canpan.info/jitou/archive/3470
★偉大な教団人の出現が得られるかどうか

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3471
★教団が再生しないならば、「既成の宗門を離れたところで展開されていく仏教」

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3674
自由にモノが言えない日本の組織
Posted by MF総研/大田 at 09:21 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL