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『寺よ、変われ』(2)長老主義と大寺権威主義 [2018年01月29日(Mon)]

『寺よ、変われ』(2)長老主義と大寺権威主義

 「形骸化した葬儀と法事を続けるだけなのか?」(帯より)

 「坊さん社会は、能力の優劣にはあまり関係のない長老主義と大寺権威主義という堅固なヒエラルキーの中にある。また檀家システムというスポンサーシップに依存し、再教育の場も持たない。それは努力しなくても生きていける独特の社会なのであり、いくつもの権威らしきものに護られた閉鎖的依存型社会でもある。
 こういった中に埋没していれば個々の感性を磨く必要はないし、実際、感性が磨かれることもない。これらが坊さんたちの専門性をわからなくしている。いったい坊さんは何のプロなのか。」(p17)

 もし、この状況に、すべての僧侶が満足しているのならば、ブームになっている社会のための「マインドフルネス」のようなことは、僧侶には望めない。始末の悪いことに、現状でいいような主張を学者が学問の装いで応援してくれている事情もある。たとえば、外部で何がおころうとかまわずに、坐禅せよ、開祖がそういっている。ここの語録のこの言葉がそうであるというような、語録の言葉を抽出して学問の装いをもった形で、内部で教育する。長老がそれを強く主張し、学者が応援する。昭和の時代には、そういう歴史がある。著者は、臨済宗であるが、他の宗門でもあった。(例:『曹洞宗正信論争』)
 若手が、「開祖の教えがそれだけならば、おかしいのではないか」という本音をおさえこまれてきたようだ。それが今もなお、尾をひいているのか。日本には、言論の自由があるというが、本当なのか。

 (続く)
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3675
<目次>『寺よ、変われ』高橋卓志、岩波新書


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Posted by MF総研/大田 at 08:35 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL