自由にモノが言えない日本の組織 [2018年01月27日(Sat)]
自由にモノが言えない日本の組織=大人のいじめ
仏教教団、学問においても
日本の宗教や宗教の学問には、自由がありそうに見えているでしょうが、内部では自由にモノ言える組織ではなさそうです。古いものが主張され続けています。いくつかの書籍で実情を知ることができます。仏教や禅の真相(*)は、僧侶を通して知ることはとても難しいでしょう。
だからでしょう。「マインドフルネス」は、日本の僧侶、仏教学者からは創始できませんでした。開発者にはなれませんでしたが、さらに、もっといい「マインドフルネス」への改善の提案は、僧侶や仏教学者からはアドバイスをもらえないでしょう。
なぜなら、そういうことはその仏教にはないという学問的な主張なのですから。社会貢献への自由な応用提案をいうといじめられるでしょう。
自由な社会と見えているはずの日本でも、心を扱い、自己とはなにかを探求したはずの、そして、苦からの解放をアドバイスしてくれるかもしれないはずの仏教や仏教学の組織でさえも、自由にモノが言える状況ではありません。
ターミナルケアの現場にも、仏教本来の教え(何ですか*)による僧侶や仏教学者からの提案はありません。
どうすればいいのでしょうか。
「寺よ、変われ」=次の記事
でも、変わることを許してくれるでしょうか。やはり、いじめられませんか。同業?者から、檀家から、理論を教えてくれる学者からも。
このように、ちょっと過激なことをいうのは、日本の僧侶、学者は「マインドフルネス」を開発できなかったのが残念なのです。そして、自由を束縛しなければ、豊かな「マインドフルネス」が日本にはあるからです。もし、僧侶や仏教学者が古いものを墨守して世界の動きを見ないというならば、新しい人材が新しい日本的なマインドフルネスを開発したほうがいいからです。
国民は求めているようです。「どう生きるか」というテーマの本が、ベストセラーになるからです。それらは、「宗教的」ですから、論理的に飛躍した説明になっているところがあることはさけられません。なぜならば、自己とは対象的ではないからです。
何とか、心理学のように、哲学のように説明する方法を開発できないのか。すでに、宗教の深い仏教はある(竹村牧男氏)、これを現代人に貢献できるようにする、現代日本人の課題でしょう。
(*)死んでから極楽往生できることですか。仕事、家庭を捨てて坐禅することですか。
ボランティア活動をせずに坐禅することですか。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3673
【目次】学問・宗教・言論・思想の自由がない日本
https://blog.canpan.info/jitou/archive/2374
★トップ、取り巻き、言論の自由を抑圧されるあわれな子羊.
この構図は、組織に多い。ほかの人もいっています。
言論の自由のない日本。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3616
★自分のモノを絶対視する傾向の専門家
意見を聞こうとしない。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3577
★メディアのあるべきすがた
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3002
★メディアに自由はあるか
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3669
★「学者は平気でウソをつく」
学者は、真摯に学問しておられるか、医学関係は? 精神療法関係の学問は?
★「寺よ、変われ」
★「ヒトは「いじめ」をやめられない」
★「個人を幸福にしない日本の組織」
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3034
★「西田幾多郎」佐伯啓思
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Posted by
MF総研/大田
at 07:36
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エゴイズム
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