「ソラリス」(17) 映画制作の組織で、作者でなく監督の伝えたいものになった問題 [2018年01月07日(Sun)]
「ソラリス」=NHK Eテレ、100分de名著 (17) 映画制作の組織で、作者でなく監督の伝えたいものになった問題12月25日、NHK Eテレビの「100分de名著」「ソラリス」の4回目の放送がありました。 終わりました。総括として感想を述べます。『ソラリス』は、大乗仏教のように、現実離れした状況設定で、自己の真実を書いてあるとも読むことができます。 対象論理の思考では絶対に見ることのできない自己の根源、勝義諦を画いた物語にしたてられているとみるものです。 https://blog.canpan.info/jitou/archive/3573 ⇒勝義諦 仏教、禅は、エゴイズムの心理を観察して、私利私欲からの行動を抑制しようと言います。西田哲学では「至誠」で生きようといいます。それに関連することが『ソラリス』でも描写されています。組織でこれが放置されれば、組織は崩壊するでしょう。 (17)総括2 映画制作の組織の問題この『ソラリス』は、組織としては、いい状況にはありません。 任務、目的を十分には実現できないような欠陥がみられます。 簡単に二つ、みておきます。1)組織が十分に働くためには、組織員がうそをつかない、本音をかくさないで同意点をさぐる、私欲を優先させない、組織の目的を忘れないことなどが要求されるでしょう。こうしたステーションの組織の組織員の問題があります。 原作に書き込まれている、ステーションの組織員の問題を作者は描いています。 これは、日本中に、世界中に起きているエゴイズムの問題です。 前の記事でみました。⇒ https://blog.canpan.info/jitou/archive/3658 2)映画制作の組織に重大な問題点がありました。 この観測ステーションの目的は、「ソラリスの海の解明」です。100年くらい研究されてきていました。これは、自己とは何かという哲学的な探求だと思われます。そして、人間のすべての意識作用の根底に、絶対に意識の対象にならないものが働いていると、東洋の大乗仏教で言われてきました。レムもそれに向かったと思われます。彼は、SF小説の形式で、これを表現しようとした。 『ソラリス』の海は、「絶対的他者」であり、西田哲学でいう絶対無と類似します。 ステーションの組織の目的は、「ソラリスの海の解明」ですが、この小説は、これを描いた。クリスは、遠くから観測している間は、真実がつかめなかった。しかし、その海に突入して自己が消えて海と一つになったので、海の正体を知りました。 クリスの使命は、終わりませんでした。残酷な奇跡だったのです。これから、残酷な使命がまっていることを自覚しました。自分ひとり、わかったら終わりというのではありません。ステーションには、他の人間がいます。伝えなければなりません。しかし、それがとても困難なのです。残酷な使命です。日本でも、仏教、禅、西田哲学の真意が仏教僧、学者に理解されて、国民に伝えようとしているでしょうか。「いいえ」です。 この絶対的他者を他人に伝えて、様々な社会問題の解決に活用できれば、すべての人間の絶対的な平等をいうのですから、世界から宗教による対立、独裁的国家、組織はなくなるはずです。 クリスの『ソラリス』の海との対峙は終わりません。スナウト、サルトリウスに、そして地球の祖国の人々に伝えなければなりません。理解されるでしょうか。いいえです。 東洋の宗教では、小乗仏教では発見されず、大乗仏教(般若、中観、法華、如来蔵、阿弥陀、唯識、華厳)で発見された『ソラリス』の海は、日本でも、明治のころから、学問的に検討され、西洋では、ロゴセラピーのフランクル、日本では、井上円了、西義雄(以上、東洋大学)、 西田幾多郎、鈴木大拙、西谷啓治、秋月龍a、井筒俊彦、竹村牧男(東洋大学)などの諸氏の哲学、仏教学的な説明が理解されているでしょうか。いいえ。『ソラリス』の海、絶対的一者、絶対的他者との対峙は続いています。 作者のレムと直接、対話した、映画監督は、2回とも、それを理解しなかった。原作者の意図を無視しました。つまり、絶対的他者の探求が終わったというふうに筋を書き換えた。 『ソラリス』は、2回映画化されましたが、 映画制作は、大勢の人間が関与して一つの物をつくっていく組織的活動です。ここにも、重大な組織上の問題がありました。 映画化された時、タルコフスキー監督は、「任務は終った」というふうに書き換えました。地球に戻る筋にしました。これも、任務放棄です。レムは激しく反対したそうです(p91)。 2回目の映画化の時、ソダーバーグ監督は、「宇宙時代のラヴ・ロマンスをテーマに作品を仕上げました。・・・ レムはこの映画に不満で、ポーランドの新聞にその理由を長々と綴るエッセイを発表しています。映画そのものは観てもいないというのに!」(p53) 映画は2回とも、作者レムから見れば、任務が伝わっていない、不幸なものでした。 この映画の組織は、作者の伝えたいことを伝えていないのですから、むしろ『ソラリス』を誤解させたので、失敗に終わったのです。 組織の使命をどうとらえるかは、非常に重要でしょう。たとえば、ある人物の思想実践を伝えようとして組織ができたとします。 ところがその組織がその人物が伝えたかったことを正しく把握せず違ったものを伝えたらどうなりますか。組織の使命を果たしているのでしょうか。 組織の使命を、組織のメンバーが違ったふうにしたら、どうなるのか。もう、違う使命を帯びた組織でしょう。 原作の『ソラリス』は人間を超えた絶対的他者の探求という哲学の使命を持つのですが、映画は、人間のラブロマンスになったのです。 3度目の映画でレムの真意を伝えるような映画を制作していただきたいです。地球に戻らず、ステーションでクリスが、他の人たちに伝えるのです。残酷な運命がまっています。 『ソラリスそれから』という筋の脚本が予測されます。クリスは理解されませんから、残酷な展開になります。スナウトはどちらなのか。サルトルウスは、地球に別の科学者を派遣してくれと要請する。そして、クリスは小数派となり排除される???。 参考記事 https://blog.canpan.info/jitou/archive/3471 ★時代環境が激変した・既存の組織に縛られない自由な心 https://blog.canpan.info/jitou/archive/3476 ★組織の悪と個人の悪 =組織が個人を否定する悪も個人が犯す。そういう個人とは、トップとそれに追従する組織員であり、彼らの組織としての行動として組織員や社会を害する。個人のエゴイズムが組織の目的を害する個人悪。『ソラリス』で描いているのは個人悪。 https://blog.canpan.info/jitou/archive/2422 ★専門家の我執・独断=学者、宗教者、ビジネス、教育、医療、政治。。 https://blog.canpan.info/jitou/archive/3098 ★専門家の我執独断が現れる仕組みー哲学者板橋勇仁氏 https://blog.canpan.info/jitou/archive/3028 (参照)言語アラヤ識(哲学者・井筒俊彦)(すべての人間の深層にあるがここも対象的意識では見えない。さらにこの奥が絶対無、無分節) https://blog.canpan.info/jitou/archive/3137 ★道元禅師のマインドフルネス =宗教者によっては鎌倉時代に『ソラリス』の海とひとつになった人がいた。ただし、道元の著作は「学問」ではなく、宗教書である。学問的研究は、100年ほど前から開始されています。絶対無が道元にもあると、西田、井筒、竹村などの諸氏が学問的に解釈しています。しかし、多くの学者、僧侶は道元における絶対無との対峙はしていません。地球に戻った、人間の立場。自己を超えたもの、『ソラリス』の海があるのか、対峙し続けなければなりません。世界中で、宗教、イデオロギーの対立から、絶対的一者を持つ人間を殺しています。宗教やイデオロギーの対立の根底の人間の絶対的平等性がある。上記の諸氏によって哲学的に解明されましたが、日本でさえも、国民に浸透していません。 沼野充義 「ソラリス」( NHK Eテレ、100分de名著)NHK出版 https://blog.canpan.info/jitou/archive/3639 「ソラリス」(1)絶対無か https://blog.canpan.info/jitou/archive/3640 「ソラリス」(2)自分の知っているものに紐づける https://blog.canpan.info/jitou/archive/3644 「ソラリス」(3)自分の心の奥底にうごめくもの https://blog.canpan.info/jitou/archive/3645 (4)自己の内面に強く意識を向けていく、やがておぞましいエゴイズムに気づく https://blog.canpan.info/jitou/archive/3646 (5)強固な幽体Fの中でも不死身の見解 (対象論理でいう学説がどの時代にも強力に主張される。日本でも不死身です。特に、実践が嫌い、自分にわからない見性を嫌う=海を憎むという言葉が『ソラリス』では表される) 「見性」は、絶対無を体験すること。『ソラリス』では、海と一つになることとして第4回にでてくる。 https://blog.canpan.info/jitou/archive/3647 (6)不死身のハリーだが再生するが違っているところがある =新しい仏教、禅のように見えるが、やはり世俗諦であること。 https://blog.canpan.info/jitou/archive/3648 (7)クリスは幽体ハリーを愛する =自己とは何かを探求する宗教者、学者、哲学者は、さまざまなものを遍歴する。ひとつを愛着し、やがてそれを捨てて別のものを愛し、結局、対象論理の範囲内のものをこしらえてそこに落ち着く。しかし、対象にならない自己の根源は愛着できないものなのに。 https://blog.canpan.info/jitou/archive/3650 (8)自分は本当の人間ではない https://blog.canpan.info/jitou/archive/3651 (9)「人間とは何か 自己とは何か」 =「私は私ではない」 https://blog.canpan.info/jitou/archive/3652 (10)海から現れるものは真実ではなく回転運動の過程の一部 https://blog.canpan.info/jitou/archive/3653 (11)絶対的他者をどう理解するか =人間のように対象化して憎むことはできない https://blog.canpan.info/jitou/archive/3654 (12) ハリーの死 =クリスの心に、もう言葉での真実にみせかけて迷わす世俗諦が消えた https://blog.canpan.info/jitou/archive/3655 (13)海、絶対他者と一つになる 、自己が消える https://blog.canpan.info/jitou/archive/3656 (14)「残酷な奇跡」 奇跡とは https://blog.canpan.info/jitou/archive/3657 (15) 残酷な奇跡の残酷とは https://blog.canpan.info/jitou/archive/3658 (16)組織員のエゴイズム=組織の目的を忘れる、うそを言う、本音を隠す、独断的な行為、 組織と個人のエゴイズムの問題 https://blog.canpan.info/jitou/archive/3664 (17) 映画制作の組織で、作者でなく監督の伝えたいものになった問題 【参考】 https://blog.canpan.info/jitou/archive/3573 ★絶対に対象的にならない自己の真実 https://blog.canpan.info/jitou/archive/3202 ★科学はある特定の立場、対象的立場を作る すべての立場の根底にあるので、絶対に対象的にならない立場を包む場所がある。これを否定することは対象的にみて否定していて、矛盾である。 https://blog.canpan.info/jitou/archive/3572 ★第3世代の認知行動療法 このなかの「人格的自己」が絶対無=虐待された人、人格を否定された苦悩、パーソナリティ障害、生きる意味を苦悩する人などの支援に |
Posted by
MF総研/大田
at 19:47
| さまざまなマインドフルネス
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