• もっと見る
«宗教とは(5) 宗教の定義 | Main | 臨床試験をーうつ病が治らない人を殺す非道な事件»
大悲ゆえの当為 [2017年10月27日(Fri)]
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3619
2018年度のマインドフルネス瞑想療法士🄬の講座
金沢、仙台、埼玉。受講できるほどの自己洞察ができるかどうか、入学試験のような事前チェックがあります。

★この冬か春に宮崎県で、まず、体験講演会を開催する計画があります。 参加したいかたはご連絡ください。 そして希望が多ければ、18年に認定講座も。  

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3603
★日本の深いマインドフルネスを考えるブログ20年・総目次

宗教とは(6) 大悲ゆえの当為(1)

 軽々しく「マインドフルネスは宗教を排除」したというが、偏見を広めるおそれがありますので、変えていただきたいと思います。

 宗教哲学者による宗教の定義は、こうである。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/2587 
★宗教である条件

A)救済の問題
B)絶対者の問題
C)信仰の問題
D)信仰に基づく行為の問題
E)真理の問題

 深い宗教、大乗仏教や禅では、「仏教がわかった。こういうものだ。」と言葉で言って、そこにとどまると、それも「悪見」(苦からの救済を妨害する)になるといいます。見解は「思考」であり、行動化されていません。 「わかった」ということをもって、他者に支援活動という慈悲の実践に乗り出してみると判明するでしょう。どういう人の苦を解決できるかわかるでしょう。大乗仏教には、「大悲ゆえの当為」という哲学思想があります。現代言われている「共生」(「みんな違ってみんないい」で自由を認め共生する世界を作っていく)に西田哲学が貢献する可能性を言っています。

 このブログも「思考レベル」であり、真実を伝えることはできません。「大悲ゆえの当為」「共生」について研究者の言葉を紹介します。ここまで取り組んでいる「マインドフルネス」の専門家はまだいないと思います。今後、世界中の専門家が、日本の西田哲学に注目するでしょう。

「大悲ゆえの当為」

 ブームの「マインドフルネス」は、みな自己(意識的自己)をそのままにして、対象的な心理を観察している。意識的自己は、それぞれの対象論理的な見方を行使している。そういう意識的自己は独断的にみて、考え、行為する。真の自己に立つマインドフルネスではない。真の見かた、考え方、行為は、意識的自己を超えたところから出る。それが「大悲ゆえの当為」である。竹村牧男氏(東洋大学学長)の著書から引用させていただく。はじめの『 』は、西田哲学の文である。

 「『自己が自己の底に自己を超えると云ふことは、単に自己が無となると云ふことではない。 自己が世界の自己表現点となることである。真の個となることである、真の自己となることである。真の知識も道徳も、かかる立場から出て来るのである。(忙しいので、今は引用を中断、あとで続ける)』
 以上、大拙と西田が、即非の論理をめぐって交流し、とりわけ西田がその事を論理的に究明しようとしていたことを、簡単に見てきた。西田にとって、宗教は心霊上の事実である。しかしそこには、必ずや論理的構造があるはずである。それを西田は、個物の哲学として究明し、「逆対応」という独自の論理を主唱したのであった。この論理は、今後ますます、世界の中で吟味・検討されてゆくであろう。」(「西田幾多郎と仏教」大東出版社、p259)

 これで見ると、ACTの「文脈としての自己」は、まだ意識的自己です。ブームのMBSRを基礎にしたマインドフルネスは、観察する自己を全く検討していない。単独行動時の「無評価」であるつもりであるが、各人の自己の理解した学習した限定的な(痛みという感覚の単独行為時の克服)基準による「無評価」である可能性が高いのです。人生すべての局面の「真の個」の立場からの「無評価」ではないようです。仏教の専門家でも、そこがわからない人がいたのです。西田哲学や鈴木禅学が批判しました。例のマインドフルネス・ブームの批判もここに関連するでしょう。(https://blog.canpan.info/jitou/archive/3611
 「無評価」は、逆対応の立場が、瞑想時ならば、真に無評価なのでしょう。しかし、世界の立場は、瞑想中だけではありません。世界を創造しゆく人生のすべての局面です。対人行為時や職務遂行時は「無評価」という用語は、誤解を招くでしょう。「独断を捨てて」と西田はいいます。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3616
 最近の教育、ビジネス界での、不祥事を見ればわかるでしょう。無評価ではいけません。社員のだれも内部でマズイではないかと指摘しないのでしょうか。企業そのものが倒産するかもしれません。世界を傷つけていないか、独断を捨てて評価しなければならないのです。
 日本には、すぐれた自己観察の哲学があるのに、捨てられています。また、欧米のマインドフルネスの人が日本に西田哲学があるではないかと指摘するでしょう。そうならないように、日本のマインドフルネス研究者は、西田哲学を学習していただきたいものです。
 「マインドフルネス」の知識も、学問も、どう観察するのかという実践方法も、真の自己から出てくるのです。道徳もそうです。エゴイズムの抑制もそうです。欧米も日本も、マインドフルネスの専門家自称の者が「金もうけ」の手段と考えるものが出てくる始末です。「効果がお金のために誇張されていること」です。そのような講座やセッションに参加すると損です。
 宗教レベルでないマインドフルネスと宗教レベルのマインドフルネスとがあります。前者も、後者への入門と考えると、一貫して日本の西田哲学で究明できます。西洋哲学と日本の哲学の2階建ての学習でなくてすみます。


この記事は、次の連続記事の一部です。
<目次>本音の観察
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3605

関連記事
https://blog.canpan.info/jitou/archive/2614 
★<連続記事>宗教レベルと宗教でないレベルのマインドフルネス心理療法

https://blog.canpan.info/jitou/archive/2587 
★<連続記事>宗教の基準

https://blog.canpan.info/jitou/archive/2607 
★エゴイズムの心理の自覚

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3611
★海外の研究報告・マインドフルネスのブームに便乗、誇張宣伝、金もうけ=日本にも

★学問が「マインドフルネス」に指針を
 =日本の「マインドフルネス」の科学は遅れています。推進者の倫理も提言されていません。

★科学的真理

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3591
<目次>大乗仏教からの初期仏教批判
 =大乗仏教の哲学は在家にとってすぐれたマインドフルネス
竹村牧男「般若心経を読みとく」角川ソフィア文庫、2017による。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3549 
★第3世代の認知行動療法=多くの流派のマインドフルネス心理療法

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3288 
★日本のマインドフルネスの再興を
Posted by MF総研/大田 at 07:28 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL