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第3世代の認知行動療法(11) ブームの「マインドフルネス」への批判が [2017年09月02日(Sat)]

第3世代の認知行動療法(11)
ブームの「マインドフルネス」への批判が

 連続シンポジウムがありました。

http://www.asahi.com/articles/ASK8L660QK8LUCLV00R.html
宗教から現代社会を問う

 第1部では、佐藤さんが「人間というのは悪の方向へ進みやすい。『軌道修正』をする役割が期待されています。」という。
 とすると、宗教は素晴らしいものです。マインドフルネスは「宗教を排除する」という言い方は、一般市民に、大きな力がある宗教を悪いものという偏見を植え付けませんか。(私は宗教者ではありません。教団には所属していません。しかし、西田哲学でいう宗教と宗教を超えた人間の平等をいう宗教や宗教を超えたもの(フランクルの一人類教、西田哲学の絶対的一者など)はすばらしく、期待に応え得るものだと思います。)

 このインターネットでは、1部しか掲載されていませんが、2部3部も大変するどい批判があります。(朝日新聞 8月29日)

 仏教のどの人の示す仏教に「人間というのは悪の方向へ進みやすい。『軌道修正』をする役割が期待されています。」という理屈や哲学があるでしょうか。それとも、期待は、仏教ではなくて、キリスト教に、ということでしょうか。

 第2部で、若松さんは、キリスト教には「言葉を超えた世界の問題」があるといいます。 理論物理学者、大栗博司氏の言葉とも合致します。対象的な言葉を超えたものがあり、これを否定するから、各人の対象論理、言葉で構成した思想を最善として、他の生命、人格を軽視し、いじめ、排除、闘争、殺戮などが起きるとも言えます。大乗仏教や禅も言葉を超えた自己の真相があるといいます。鈴木禅学、西田哲学、井筒哲学などが紹介しています。言葉以前を言葉で説明するのですから、わかりにくいですが。 しかし、仏教学ではそれを否定する人もいます。仏教は期待にそえないのでしょう(か?)。

第2部、第3部では、 仏教の現状や「マインドフルネス」への批判がみられます。

 ただし、宗教でも人間のすべての尊厳を認めず、自分の宗教以外の国や人間は滅んでもいいというのは恐ろしいです。人はみな、生まれてきて生きる権利があります。宗教の違いで殺すということは恐ろしいことです。それに対する反論が宗教で明確にあるでしょうか。 無我だけ、縁起だけ、坐禅だけ、対象論理の世俗諦の解釈だけなら、期待に応えられないと思います。他の宗教と対立して。
 現代は、危機的状況です。宗教者も研究者も、再検討し、期待に応えるか、わが宗教は応えられないと放棄するか、真剣に考えていただきたい。

 なお、私どもが提案している意志的自己の「マインドフルネスSIMT」自己洞察瞑想療法(SIMT)は、「自己を超えた絶対者」をもちださなくても、対象論理的な観察で問題を改善する意志的自己の段階です。ただし、大乗仏教や西田哲学には、深い宗教性(自己、国、特定宗教などを超えた人間の絶対的平等性)をあきらかにするものがあり、そこを活用しないで捨てる、否定するのは、残念だと思うのです。人格的自己レベルのマインドフルネスSIMTです。その前に、叡智的自己レベルがあり、これはすべての専門家です。科学者もここです。宗教レベルではない。それぞれ、各人の選んだ対象的価値で社会に貢献していきます。そうであるのに、叡智的自己を超えたものを否定する人は、他を受け入れずに争います。自己をこえたもの(人類共通の平等性=対象とならない)を認めると、互いの生命の尊厳を認めます。「みんな違う価値で社会を創造していきますので、互いに他者の人格を尊重します。違いがあっても、価値、基準、思想、宗教、職業、性別など言語によって表現されたものと認めて、他者の生命や価値を受け入れます。「みんな違って、みんないい」 (金子みすゞ)です。


★マインドフルネの 水平展開と垂直展開

★ 第3世代の認知行動療法
目次

★認知療法から第3世代の認知行動療法へ

★学問のよそおいで、狭く限定する
★フランクルの教育論
 学問における全体主義、画一主義、還元主義

だからマインドフルネスもMBSRに限定してはいけない
 =多くの社会問題にはもっと広く深いマインドフルネスが必要

★日本のマインドフルネスの再興を
★人格的自己のマインドフルネスへ
★マインドフルネスには哲学がつきもの
★<目次>日本的霊性はだめか
Posted by MF総研/大田 at 12:39 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL