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初期仏教は他者を救済しない理論=そこを批判する大乗仏教の哲学 [2017年08月26日(Sat)]

初期仏教は他者を救済しない理論
 =そこを批判する大乗仏教の哲学

 NHK Eテレビ こころの時代で 唯識の研究者横山先生と理論物理学者、大栗博司氏の 対談がありました。 大栗氏の次の言葉が印象的でしたと書きました。

「科学は自分とはなにかは答えられない。」

「科学は仮説を立て、しかも実験、検証して確かめていく。 対象あってのことと思います。」

 横山先生は、大乗仏教の唯識の研究者です(から?)、大乗仏教を否定されませんでした。 一方、大栗先生は、他の仏教学者と共著で対談の本をだされました(2016年11月)。 その中で、仏教学者は、大乗を否定し、別の機会に、鈴木大拙を否定する本をだされました。これに大乗仏教側からの反批判になる本が、竹村牧男氏の「般若心経を読みとく」(角川ソフィア文庫、2017年7月)になっています。大乗を批判する先生は、釈尊の教え=部派仏教(初期仏教)のアビダルマとしておられます。それは、対象的ですし実体視しましたので、大乗仏教からは、ダルマも空であると批判されました。大乗仏教は、対象とならない主体を探求するのだと主張します。
 部派仏教(説一切有部である、釈尊ではない)は、世界の構成要素(ダルマ)を実体視したためと法執を捨てることをしないために、一般庶民を救わなくなった(釈尊ではない)。そのことを竹村氏はつぎのように述べています。部派仏教と大乗仏教の研究者の解釈の違いを示していて興味深いです。

 「説一切有部の教理は、「三世実有、法体恒有」と言いならわされています。つまり法=ダルマというものを、実体視する立場にあったわけです。法が実体だとすると、法が有るとの了解は、決して迷いになりません。・・・したがって法執というものも自覚されず、ゆえに法執というものが絶たれるべきだとの認識が生まれません。
 我執というものは、生死輪廻の根源です。我執があるから、次の世にもまた生まれてきてしまうわけです。したがって我執を断つと、生死輪廻は止み、涅槃に入ることになります。小乗仏教は正にこのことをめざしています。しかし、その修行が完成して涅槃に入ると、ただ静寂なだけで、それ以上、何の活動もないということになります。はたしてこのようなことが、人間の生命にとって究極的にめざすべきことなのでしょうか。
 涅槃に入ってそれ以上、何の活動もありえないのは、その人に知恵が実現していないからです。 菩提(覚り)を完成することがなかったからです。智慧を成就すれば、おのずから何ものにもとらわれず、他者に関わって生き抜いていくことができます。その完成した姿を体現するのが仏というものでしょう。この智慧を実現・成就するためには、我執だけでなく法執をも離れなければなりません。・・・・・ それは、大乗の仏教徒たちの求道と体験の中に証されたことなのです。」(p120)

 大乗仏教の智慧が 勝義諦の実現です。思想哲学の理解ではありません。我執、法執を捨てて、他者の救済の行動をとり続けることです。どこかの枠にとどまる自己満足はありません。大乗仏教の方針は、 無住処涅槃だといいます。
 哲学が違うと、マインドフルネスの方法や目標が違ってきます。小乗仏教の哲学を持つと、他者を救済しなくてよい理屈、自己合理化を持ちます。こういう理屈は「開祖の教えは坐禅である。他者救済は不要である」というところにも似た理屈がみられます。組織の人も社会の人が懸命に働いて作る物やサービスをもらっています。エゴイズムになりませんか? 現代の僧侶や一般市民の賛同が得られるでしょうか。? 単純に一元化されないのでは? 本当に開祖の真意のすべてでしょうか。寺院崩壊の時代に生き残れるのでしょうか。組織内の人も本音では案じている人が多いと思います。ただ、幹部の方針と違うことをいいにくいのもわかります。多様なことを説いているのに、一部分だけで、 フランクルが批判した全体主義、画一主義、還元主義 ではないのか気になります。環境の変化に応じない組織は消えていきました。私が教えを受け救われた、そうなってほしくありません。
 なぜならば、道元に勝義諦をみる僧侶、仏教学者、哲学者も多いからです。坐禅だけひとつを言ったわけではなさそうです。
 仏教僧、仏教学者、マインドフルネス推進者の説を聞いていると、刷り込まれて固定した見解となり、もう変更しなくなります。だから どのような哲学であるのか、とても大切です。学者にはいませんが、反社会的なカルトや集団自殺の哲学を持つ人の教えに近づいたら悲惨です。一般国民としては、現代社会にふさわしい仏教はどうなのか、明らかにしてほしいですね。竹村先生の解釈される仏教は勝義諦のようで、現代の深刻な問題に応え得る(先生もそう別著で言っておられます)ような気がします。
 MBSRやMBCTよりも深いマインドフルネスを実践するならば、その手法や理論が違ってきます。「感覚」「無評価」だけではなくなります。それを感じる人は、マインドフルネスを深く知りたいと思うでしょう。そこで、詳しく記述している初期仏教(説一切有部の経典や論書)を参考にしようという動きになるでしょう。しかし、・・・。
 現代人のマインドフルネスは、初期仏教(説一切有部)の四諦八正道(ダルマを実体視している)よりも、大乗仏教系、西田哲学系のほうがふさわしいという理由を竹村先生が教えてくださいます。対象的な言葉による定義、説明を主張するのが叡智的自己です。勝義諦をいう哲学、仏教学以外の学問主張になると、理解できない人もいます。どれによるかで賛同を得ることができないと、組織は分裂したり解散になります。組織を構成する人間は様々な本音、利害をもっています。隠しているので「本音」です。話し合って落ち着かず対立するところには、己見我利我執、法の実体視があるというのです。言葉で定義した規則、思想を実体視しますので、強い己見を持つ人は、他のすぐれたものを受容できません。 我利我執法執が渦巻きます。

 なお、釈尊の教えと初期仏教(部派仏教)では違います。この2つを混同してはいけません。釈尊の直説は、残っていません。部派仏教の教団が体系づけた経典よりも、もっとも古い経典群で、直説を解釈しようという試みが仏教学者の間ですすめられています。釈尊自身がダルマを実体視したかどうかは不明です。実体視した説一切有部の経典はずいぶん後にまとめられたもので釈尊の説法そのまま(金口)ではないので、東南アジアの仏教が釈尊のそのままの説かどうかは不明です。同じというのは、文献学的に仏教学的に誤りです。仏教は歴史的に変遷しています。状況、担い手の変化、苦悩問題の直視により、智慧の変化により、仏教は変遷してきました。
 西田哲学を基礎にしたマインドフルネスSIMTは、仏教ではない、西田哲学の実践化である、といってもかまいません。あるいは、やはり、仏教と言えるといってもかまいません。500年後の人々が歴史的に、あれは「第3次の大乗仏教」であったと位置づけるかもしれません。あるいは、誤りであったと解釈されるかもしれません。それは未来のひとにまかせます。大切なことは、今の同時代の社会に広く深く有用であるのかどうかでしょう。 人(ひと)は人、吾はわれ也、とにかくに吾がゆく道を吾は行くなり。そんな歌が西田幾多郎博士にあります。

 他者の救済をするほうがいいようですが、他者救済の理論のないものが良いとする心理。良きものを善意で(悪意なく)否定する解釈をする心理、そこに何かの法執(本音)が深層にあるのかどうか、こういうものが、西田博士がいう叡智的自己の「独断」の一種なのか、哲学的に解明していただきたいです。学問的科学的な装いをした論文にこういうものが実に多いように感じます。


★ここにも初期仏教の批判

(目次)日本的霊性
 鈴木大拙博士は対象にならない自分を「日本的霊性」といった

★マインドフルネスSIMTの全体展望

★マインドフルネスの支援者は哲学が必要

Posted by MF総研/大田 at 13:18 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL