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大乗仏教にも道元禅師にも深い部分がある [2017年04月18日(Tue)]

大乗仏教にも道元禅師にも深い部分がある

 もちろん、経典には浅いことを書いてある部分もあれば、深いことを書いてある部分もある。深いものは、浅いものを包括する。
 大乗仏教にも、浅いことを書いた部分もあれば、深いことを書いた部分もある。法華経も華厳経もそうである。西田哲学も浅い意志的自己や叡智的自己を書いた部分もあれば、深い人格的自己を書いた部分もある。
 (注)深いものは勝義諦という。https://blog.canpan.info/jitou/archive/3573

 西田幾多郎は、大乗仏教にも、道元禅師にも深い部分があるという。竹村牧男氏(東洋大学学長)も同様である。 竹村氏は、西田哲学の次の部分を引用する。

 「仏教においては、すべて人間の根本は迷いにあると考えられていると思う。迷いは罪悪の根源である。しかして、迷いということは、我々が対象化せられた自己を自己と考えるから起こるのである。迷いの根源は、自己の対象論理的見方によるのである。故に、大乗仏教においては、悟りによって救われるという。私は、この悟りという語が、一般に誤解せられていると思う。それは対象的に物を見るということではない。もし対象的に仏を見るというごときならば、仏法は魔法である。それは自己自身の無の根底を、罪悪の本源を徹見することである。道元は仏道をならうことは、自己をならうなり、自己をならうというは、自己をわするるなりという。それは対象論理的見方とは、全然逆の見方でなければならない。元来、自力的宗教というものがあるべきでない。それこそ矛盾概念である。仏教者自身もここに誤っている。自力他力というも、禅宗といい、浄土真宗といい大乗仏教 として、もとより、同じ立場に立っているものである。その達する所において、手を握るもののあることを思わねばならない。」(「場所的論理と宗教的世界観」巻11-411)。竹村牧男(2012)『宗教の核心―西田幾多郎と鈴木大拙に学ぶ』春秋社,162ページ。


★<目次>日本的霊性はだめか
Posted by MF総研/大田 at 21:45 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL