CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る
«宗教観さえもが役に立たないほどに自己否定のところ | Main | 大乗仏教にも道元禅師にも深い部分がある»
日本的霊性によせて [2017年04月17日(Mon)]
マインドフルネス精神療法研究、第3回発表大会です。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3520

真理の階層性

 日本的霊性によせて

 前の続きです。
 自己は自己自身だけで存在している(そういうのを基体という)のではなくて、自己を超えたもの(絶対無、これもそれ自身で存在しない)に於いてあるといいます。 西田哲学がそれを論理的に説明していますが、竹村牧男先生の著書から引用します。

 「知られるように西田は、宗教は「心霊上の事実」(371頁)であるといい、「神は我々の自己に心霊上の事実として現れる」(372頁)という。また、「宗教を論じるものは、少なくも自己の心霊上の事実として宗教的意識をもつものでなければならない」という(373頁)。
 すなわち西田にとっては、宗教はあくまでも事実なのであり、決して一つの理念や理想なのではない。」(竹村牧男,2002,p174)(文中の頁は(旧全集の11巻の頁)

 多くの人が、実際体験した事実(心霊上の事実)なのです。だから、ちょっと理解しがたいことばやたとえ(メタファー)などが見られるのです。道元禅師、良寛、白隠、大東国師、盤珪・・・、妙好人、西田幾多郎、鈴木大拙、西谷啓治、井筒俊彦、・・・、河井寛次郎、東山魁夷、・・・。エックハルト、 V・E・フランクル・・、弁証法的行動療法のリネハンもそうかもしれません。

 叡智的自己は、絶対無の体験を通した人格的自己の立場には、なかなか、立つことが難しいようです。深いもののテキストが理解できない(竹村先生は、絶対無を体験すると「看経の眼」が開けるという)。ただし、体験がなくても、哲学者は理解しておられると思います。多くの哲学者が、西田哲学のいうところを理解しておられるようです。

 深い人格的自己は、浅い意志的自己、叡智的自己を否定しません。包括します。 深いものは浅いものを包括できますので、否定しません。意志的自己のマインドフルネスSIMTは、浅い意志的自己レベルのトレーニングです。かなり有効性があるので、否定できるはずがありません。しかし、もっと深いものがあり、そういうものでないと深い悩み(自己嫌悪、死)を解決できないことを知っていますので、深いものを否定しません。法華経の行者、常不軽菩薩のように。迫害する人にも、あなたの根底に仏性(絶対無)があると。
 浅い宗教観を固執すると、それは対象的ですから、他の対象的なものを否定する傾向があります。常不軽菩薩に石を投げる人のように。自分のものと違うものがあると、自分の心が安定しないので。

文献:
竹村牧男(2002)『西田幾多郎と仏教〜禅と真宗の根底を極める』大東出版社
★<目次>日本的霊性はだめか
Posted by MF総研/大田 at 21:10 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL